夏目漱石が説いた「模倣」と「独立」の相克
夏目漱石は、講演『模倣と独立』の中で
人間には二通りの色合いがある。「イミテーション(人まね、模倣)」と「インデペンデント(独立、独創)」があって、その両方が大切であるといっている。
「インデペンデント」の例として、劇作家のイプセンをあげている。
そもそもイプセンの時代は、道徳といえば「男」の道徳しかなかった。
「強い男が自分の権利を振り回すために自分の便利を計るために、一種の制裁なり法則というものを拵えて、弱い女を無視してそれを鉄窓(てつそう)の中に押し込めたのが今日までの道徳というものである」。
イプセンは「男の道徳」「女の道徳」というようにしなければならない。それは女からみれば今までの男の道徳と真逆である。
そして、その「女の道徳」の観点から作った最も著しい作品が『ノラ(『人形の家』)』である。
独創性の裏側にあったイプセンの「偏屈」
それがためイプセンは大変迫害を受けた。事実不遇な人であった。
また、めったに帰国しないが、帰国した際に、彼の歓迎会が開かれた。行きたくないといったが、説き伏せられ出席することになる。当日、燕尾服がないから出ないと駄々をこねる。人数が12人から24人に増えると、嘘つきだもう出ないという。
出席はしたが、彼の歓迎会にも関わらず始終ふくれていて一口も口をきかない。
このイプセンを漱石はこういっている。
「とにかく人間を代表して獣を代表しても、イプセンはイプセンを代表していると言った方が宜い。イプセンはイプセンなりと言った方が当たっている。そういう特殊な人であります。この話(※筆者注―歓迎会のこと)は幼稚でありますが、今のイプセンの道徳(※「女の道徳」のこと)の見解からいっても、イプセンはイミテーションという側の反対に立った人といわなければならない訳であります。」
「独立」と「偏屈」は表裏一体である
「イミテーション」と「インデペンデント」は、たいがいどの人間にも同居している。ただ、どちらかが強く出るかでその「人間の色合い」が決まる。
時期によっても違ってくる人もいる。かつては「模倣的」であったが「独創的」なことをし始めたというように変化することもある。
一方で、「インデペンデント」の人を観察すると、「独創」と「偏屈」はイプセンのように裏腹にあるように思う。
「インデペンデント」が強く出れば出るほど、他人に見せるか見せないかは別にして、裏側には「偏屈」が隠れている可能性が強い。
ということは、もしも自分が「インデペンデント」に生きたければ、内在する「偏屈」を育てなければならないともいえる。
頑固だったり、ある好みに固執したり、気分屋だったり、ひねくれていたり、…性格の「偏屈」な部分はときに、人から嫌われ、相手にされず、孤立する。これはあまりにも「独創的なアイデア」は、最初、相手にされず、それでも押し出せば嫌われ、孤立しがちであるのと一緒である。
AI時代にこそ必要な「自分だけの違和感」
この「模倣と独立」という夏目漱石の講演は、大正2年に行われた。その時代に、高等学校の生徒に聞かせる必要なテーマであったのだ。
でも、今の時代は人間はよりいっそう「インデペンデント」にならなければならない。なぜならば、AIが「イミテーション」を行うからだ。厳密にいえば、AIは「真似」や「模倣」しかできない。「独創」は不可能である。創造的なことを行っているように見えても、基本は過去のデータを元に答えを出し、組み合わせてつくっているからだ。
文学や絵、音楽などの「創作」を行っても、それが「独創的」であることとは別である。
そして「インデペンデント」になるためには、自分の中の「偏屈」をヒナを育てるように大切にしていくことが要件である。
人前にさらすのがきついなら、そうしなくていい。自分の中で育てていく意識をもつことだ。
それはわざわざ偏屈をつくるというよりも、もうすでにある「他人との違い」や「自分の変な部分」を認めて、その角を折らないという意味である。
金子みすゞの詩にある「みんな違ってみんないい」をもっときつくしたものと思ってもらってよい。
それを「我」に認めてあげるのだ。
≪追記≫「この『偏屈』という名の個人的な違和感こそが、AIが学習・模倣できない唯一の聖域であり、私たちが『真我』へと至るための突破口になるのかもしれません。」
(END)
