Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

AIも檻の中


1. AIの提案を選択する人間

現在、AIは、デザインの世界ではアシスタントデザイナーの役割である。 アシスタントデザイナーが提示したいくつかのデザインから、選択するのが、デザイナーである。 同様に、AIが提示したアイデアなり情報から、選択するのはユーザーである人間である。

そのようなことをYouTubeの番組で、進化学者の佐倉統氏が言っていた。

人間による選択にはもちろん、AIの提案や情報を採用するか、しないかまで含まれる。 どのAIを使うかも含まれる。 さらにいえば、AIそのものを使うか否かの選択ができる。 すべては人間の判断にかかっている。 そのすべての中にAIの利用ももちろん入る。

2. AIが作られる「社会」という檻

ところで、AI自体も現在の社会の中でつくられている。

AIのことを詳しく知らない者でも、それは自明のことである。 たとえば、今、多くのAIは、ビジネスのために作られている。 そうでないものもあるかもしれないが、 今までの社会(人類の歴史)に関する知識やそれに基づく見解がベースになっているのは、明らかである。

つまり、社会の中でつくられた。 私の前の記事で書いた「社会」という「檻の中」に当然、AIも入っている。

「社会」という「檻」は、それぞれの人間の「脳の中」にあるとも書いたが、その「脳の檻」の中に、AIはある。

では、檻の外とは何か?

3. 井戸の底から見上げる「空の青さ」

井の中の蛙大海を知らず。されど空の青さを知る。

ということわざがある。語源は中国の古典『荘子』である。 『荘子』には「井の中の蛙、大海を知らず」までである。 それがいつしか、「空の青さを知る」がくっついた。

「空の青さ」を深く感じることも大事である。見過ごしがちな、日常の小さな美しさや感覚をキャッチしておくことはとても大事である。

しかし一方でこういう見方もある。 「空の青さ」だけを知ってそれでほんとうに自分は充分なのか。 井戸の底から、狭い井戸の口を見上げているだけで何を知ることができるか。何をすることができるか。

だから、ほんとうは、井戸から見上げる「空の青さ」を知るとともに、井戸から抜け出せる立場にあるならば、外に出て無限に広がる「大海」も経験している方がいいであろう。

4. 檻から抜け出し「大海」へ浸る選択

「社会」という「檻」を、自己の頭の中につくり、そこから空を見上げるだけではなく、一度、その井戸から抜け出て「大海」のただなかに浸ることも考えた方がよい。

それは会社や役所に所属することと同じかもしれない。 ほんとうにいやだったら、やめたらいい。 そんなこといっても、やめたら食えなくなるじゃないか。 だったら食えなくなれば、といいたい。 人間は死を選ぶという選択肢ももっている。 でも、自分がいやということに従って、死をも覚悟した人間に、 自分が死をもたらすだろうか。 むしろ大きな力が湧いてくる可能性が高い。

「山川の末に流るる橡穀(とちがら)も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」(空也上人)

でも、結果が悲惨なことになるかどうなるかはわからなくても、 自分で選択する。 選択したことに対しては、自分で責任をもつ。 そこに生きる意味がある。 自分を信じ、自分で選択したことによる、内なる力が深奥から湧いてくるであろう。

5. 責任を取るのは、いつだって人間

AIに何かの判断を委ねたとして、責任をとってくれるか。 ミスをした場合、当然のごとく、「すみませ〜ん」というかもしれないが、 言い訳をせいぜい付け加えるだけでその話はおわるであろう。

 もしも、失敗したら責任をとって、爆発して消滅するAIが未来にできたとして、 なんなのだろう。 技術的な責任や法的な責任ではなく、“存在として責任を負う”という意味である。

他の人や物(AI)に選択を委ねた結果、うまく行かなくて、昔でいう切腹したとする。 だからといって、選択を依頼した方の人間にとって何の意味があるだろう。

責任は自分で取るから、人生は充実するのだ。 すべてをほんとうは選択しているのが人間である。 誰かに何かをチョイスしてもらってばかりだとしても、 その人にチョイスしてもらうと決めたのは自分である。

6. 社会を超越する「X」の可能性

冒頭の話に戻るが、AIを利用しても、判断を下すのは人間である。

AIの提案に乗るか乗らないか、そもそも、AIを利用するかは自由である。

それは、AIがつくられるときも同じであろう。

AIを開発する際の最初の段階や立ち上げ「構想フェーズ」や「企画フェーズ」のメンバーは、特定の個人に限定されないそうだ。

そこに関わる役割や専門家は以下の通り。

• 経営層・プロジェクトオーナー

• AI研究者・科学者

• AIアーキテクト

• プロダクトマネージャー・企画担当者 • 倫理・法律専門家、政策立案者

            (Geminiより)

つまり、当然のことであるが、人間が、基本方針やコンセプトを考える。それに沿って、細部までがつくられていく。

彼らの役割は明確である。 そして「役割」とは、「社会」である。

だから、開発の段階で、すでに「社会」という「檻」の中で、作られている。

私は、一人一人の人間はほんとうは「社会」以上のなにか‐「X」だと思っている。(Xとは、もちろんツイッターのことではない。) 「X」は「社会」の一部をやらされているのではない、あえて「社会」の一部として参加している。 別の表現をすれば、社会より「X」が上となる。

「X」とは自我ではない、自我を含んだ「大いなる何か」、それが「X」である。

「自我を超えた自我以上のもの」、「意識という無限の広がり」、「湧き上がる本来性」…。

 だから、人間の中にも「自我」でしかないものは、「X」と呼べないかもしれない。 しかし、皆、いつでも「X」になれるのが「人間」なのである。

                             (END)