孤独に悩む人がいるなら、その人にアドバイスをしたいのは、「孤独に入り込め」ということである。
孤独になった、孤独がいやだ、でも孤独にならざるを得ない、孤独を抜けられないとその周辺をウロウロしているから、いっそう苦しくなり、ますます孤独になるのである。
孤独になったら、徹底して孤独になれ!
それが私のアドバイスである。
自ら、孤独に浸っていくのである。
だって、しょうがないじゃないか。何らかの理由により、もしくは理由がわからなくとも、
そうなってしまったのだから。
それなら、それを受け入れるのである。
受け入れるとは、どういうことか?
孤独という対象に、自らもぐりこんでいくことである。
寂しいとか、つらいとか、生きて行けないかもしれないとか、
いろいろ感情があり、不安や恐怖があるかもしれない。
だからこそ、そこに自ら飛び込むのだ。
孤独に飛び込む
人はそれを逃げないというかもしれない。
しかし、逃げないどころではない、敵から逃げないだけではなく、
敵に挑みかかっていくのである。
敵だと思わなくてもいい。敵といったのは、単なる比喩である。
そこに飛び込んでしまえば、孤独は敵ではなく、味方であることがわかる日がくる。
そのとき孤独になったからって、生涯ずっと孤独であるとは限らない。
かつて人の中でもまれて生きていた人は、孤独になってまた、自ずと人の中に戻るかもしれない。
一方で、ずっとずっと孤独でいる人もいるかもしれない。
それはそれでいいじゃないか。
上等だ、受けて立とうという意識で、生涯そうであるかどうかはわからない
孤独に入っていく。
良寛のことば
禅宗の僧として、高い悟りを開いた良寛は、乞食坊主のまま死んだ。
その彼の言葉に、こういうものがある。
災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬる時節には死ぬるがよく候。これはこれ災難を免るる妙法にて候。
この意味は、私の「孤独に入り込め」の「入り込め」という表現を使うと、
災難に遭った時は災難を受けて立ち災難に入り込むがいい。死ぬときが来たら死を受け入れて死に入り込む、すなわち死ぬがいい。
これらは、災難や死から免れる妙法である。
【妙法】(みょうほう)は、仏教における深遠な真理や教えを指す。
「死に入り込む」といっても、自ら命を断てということではない。
死ぬ運命になったら死ぬのがいやだとそのままを見ることがなく、もがくのではなく、その死を受け入れ、死んで行けということである。
ところが、そういう心境になれたときは、意外と死なないものである。
でも、それを期待して、訪れた死に入り込む気持ちになってはいけない。
それは、死を受け入れたことにならない。
だから、良寛の言葉にならえば、
孤独になる時節には孤独になるがよく候。これはこれ孤独を免れる妙法にて候。
孤独になるときは、孤独に入り込め!これは、孤独を免れる妙法である。
つまり、孤独を受け入れてしまえば、もう孤独でなくなるのである。
孤独とは、一人という状態をさすのではなく、
心の中身の問題であるのだから。
孤独に自ら入り込めば、孤独を感じることが薄くなり、しまいに孤独という心の状態から解き放たれるのである。
ときどき、また孤独という心の陰りがやってくるが、また、そこに入り込んでいけば、やがて孤独は消えるのである。
孤独という感情がまったく出ないようにするのは、なかなか難しく、積み重ねが必要だ。
もっといえば、孤独という感情がでること自体は、問題にすることではない。
孤独が来て、孤独をつかんでいるから、つらくなるのである。
それを手放す1つの有効な方法が、「孤独に入り込む」である。
本格的な孤独が来る前に、ちょっとした孤独がきたとき、試しに、気持ちの上で入り込んでほしい。
楽になることに気づくであろう。
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