何かをやるのに、他人に見せるためにやるのはよくない。
(あえて、そこに片寄りすぎるのはよくないと付け加えておく)
それが他人の目を気にしているということだ。
ところが、「自分に見せる」ためにやるのはどうだろう。
「他人に見せる」のと、真逆である。
「自分に見せ」て、自分が喜ぶとは限らない。しかし、そもそもあたりまえのことをあたりまえにやるのを自分が見ている場合、「自分に見せる」とはいわないだろう。
たとえば、文章を書くとき、どうすれば自分が喜ぶか、どうすれば今書いていて楽しめるか、「私自身が納得するもの」を目指して書けば、「自分に見せる」ということになる。
淡々と(たんたんと)やることだって、あえて「淡々とやる」を自分に見せて、自分が満足するのだ。
「自分に見せる」とは、別の方向からいえば、意識して行うことだ。
意識した結果、自分に見せることになる。ただ、なんとなく無意識にやっていたのでは、自分に見せていることにはならない。
実際、自分に見せていない。もしかして、何かを書いているのを「自分の目」は見ているかもしれないが、それはこの場合の「見ている」とはいわない。
まさに、「自分の意識が見ている」、つまり「意識が見ている」のが、「自分が見ている」ということだ。
ここでいったんまとめてみるが、
「自分に見せる」とは、
- 自分を喜ばす、自分を楽しませる、自分を納得させる、など
【例】 「文章を書く」
自分が喜ぶものを書く、自分が楽しめるものを書く、自分を納得させられるものを書く、など
- 意識して行う。
【例】「電車に乗車して席に座っている」
〇電車の中でただぼっと中で座っている。―自分は意識していない。
→自分に何も見せていない
〇電車の中で車内や外の風景を観察している。—自分は意識している。
→自分に(車内や外の風景を)見せている。
上記の、1.も、2.もなく、ただ「他人に見せている」だけということは、今日本では流行っている言葉である「自分軸」がないということになる。
逆に、1.2.のような「自分に見せる」を行動規範にしている人を「自分軸」がある人というのだろう。
「見せる」対象が、「他人」か「自分」かを考えることによって、「自分軸」の正体が、見えてくる。
このテーマについて、まだまだ考える余地はあるが、思いついたまま書いてみた。
