つかれている。
暑さのせいか。朝早く「今年夏バテしない」と誇らしげに、自身に言ったが、半日経つともうこれだ。
何か体調を崩したのではと心配になるが、だからといってもどこが悪いのかもわからない。さきほど涼しい、冷房入りの部屋から、暑い冷房無しの部屋へと移動したときに、めまいを感じた。
夏バテしてないと宣言したばかりで、本格的夏バテに入ったのか。それとも別のところに暑さの影響が出たのか。
昨晩は寝ている間も29℃はあったと思われるが、冷房をつけないで寝た。本来は7時間床にいたいのだが、それもかなわなかった。そして、日の光で朝早く目覚めた。
7時間床にはいなかったが、目覚めた布団の上で、天井を眺めながら気づいたことがあった。
過去は目の前
目の前に起こっている現実は過去のものだ。つまりは、過去の産物。
自分の思考が造り出したものが結果として現れた。
禅語で言う「一切唯心造」―「すべては私の心が造っている」である。
目の前にその現象は現れる。
現在は感覚
目の前が過去のものだとして、「現在」はどこにあるか?
身体にある。いや、身体の物質部分は、目の前の現象と同じく過去のものだ。たとえば、身体というものは過去に自分が食べた物で出来上がっている。
だとしても、「現在」は、感覚である。身体から発した五感やフィーリングーインスピレーションもそこに入る。それこそが、「現在」である。
我々は、「今ここ」が大事と言うが、「今ここ」と考えた瞬間に、それは「過去」へと流れてしまう。
思考は、「過去」か「未来」にしかなく、「現在」にはない。
五感やフィーリングを感じているときに、「今ここ」つまり「現在」に我々はいることができる。
典型的なのは、身体のどこかがなんらかの原因でとても「痛い」とき、その「痛み」をよけようとせずに「痛み」を感じていれば、そのときに我々は「今ここ」にいる。
「なんで痛いのだろう」「どこに原因があるのだろう」と考えると、もう「過去」になってしまう。
「痛み」もストレートに感じようと思って感じていると、消えるものだ。消えかけて楽になって、しかし、ここで「痛み」について「どこに原因があるのだろう」などと考えてしまうと「痛み」が長引いてしまう。
「痛み」が増してしまうこともある。
感じているとき、五感やフィーリングにただ浸っているときに、我々は「今ここ」にいられる。瞑想をして、頭を空っぽにするとかいうよりも簡単に「現在」にいられる。
未来は背後
じゃあ、「未来」はどこにあるのか、背後にあるのだ。身体の背中側、つまり背面から始まって後ろ側のすべて。
そこが「未来」。
その特徴は見えないこと。人間は自分の背後を、背中から始まってすべての背後を自分の目では見ることができぬ。
振り替えれば見ることができるというかもしれぬ。
しかし、それは、背中から始まる、正確な背後とは異なる。
風呂屋の鏡等で眺める背中は、「私の背中」ではない。限りなく近いけれど、私の背後もしくは背中
見えないからこそ、頭の中で想像する。またハートで感じる。その像がより明快になればなるほど、実現する。
その未来から現在、過去に向かって時間は流れていると言う人がいる。
過去、現在、未来という常識的な時間の流れとは、反する多くの人から見れば、荒唐無稽な時間の流れがそこにはある。
でも実際、事を達成するのは、目的・目標を立ててイメージ化する。そして実現する。まさに、そのときの時間は「未来」から「現在」、「過去」へと流れている。
目的・目標を立てて、実現しなかった場合は、時間の流れはどうなのか。
実現しないという未来から現在へと時間は流れたのだ。そして、過去の認識へも影響する。
目的・目標を立てなかった場合はどうなのか。
それはそれで、目的・目標ではないが「未来」があって、「現在」そして「過去」へと時間が流れるといえる。
時間や空間はほんとうはない?!
時間も空間もほんとうはないという考えもある。
この世界は、もしくは人間の認識は「永遠」であって、時間も空間も存在しない。
だから、「過去」「現在」「未来」という流れ、ふつうはこの流れを「時間」と呼ぶのだが、この「時間」はほんとうは存在しないが、人間が創ったものだという。
さきほどの「一切唯心造」―「すべては私の心がつくっている」に通ずる考えである。
だからもしも「時間」や「空間」はないものであって、人間が都合上、作ったものだとする。
だとしたならば、「過去」「現在」「未来」という時間は作り物なのだから、都合のいい時間、たとえば、「未来」「現在」「過去」という時間を人間が創ってしまえばよいのだ。
「過去」「現在」「未来」という「時間」はもう使わずに、「未来」「現在」「過去」という「時間」に換えてしまえ。
「時間」という確固としたものがあると思い込んでしまうと、その思い込んだ「時間」とは、
「過去」「現在」「未来」であるが、もう動かせない。強固な思い込みによる。
この場合、そこに新しい時間をつくるのは難しい。
ところが、「時間」なんて人間の作り物に過ぎないと知れば、「時間」が必要であるならば、たとえば、「未来」「現在」「過去」という、それまでとは、まったく逆の「時間」であっても都合のいいものに書き換えて、つくればよいのだ。
「過去は目の前、現在は感覚、未来は背後にある。」
だいぶ脱線してしまった。
ともかくタイトルにあるように、「過去は目の前、現在は感覚、未来は背後にある。」。
これを知るだけで、少しは「かるく」なれる。
少なくとも自分はそう。
「かるく」なるということは、「過去は目の前、現在は感覚、未来は背後にある。」は、真理であるということかもしれない。
皆さんも、それを意識して生活してみてください。
何かご意見がある方は、よろしくお願いします。
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