Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

感覚を大事にできれば、自分に合わない夢は必要ないはずだ



なんでも丁寧にやる、食べ物を味わう



 夕方、日が落ちてからぶらぶらと道を歩いた。短パンにTシャツ、サンダル。気持ちのいい風が肌を通り過ぎた。つい数時間前までは、35℃の猛暑だったのに。


失敗したのは、サンダルばきだけれど、靴下をつけていたこと。あの、指と指、サンダルとの隙間から足の裏にスース―と風が入る感覚を味わえなかった。


 味わうと書いたが、数年前、ある占い師から、なんでも丁寧にやる。食べ物もちゃんと味わった方がいいというアドバイスを受けた。


自分と年齢がいっしょの男性であったがなかなかいいこと言うなと思った。しかし、そのとき勤め人として忙しかった自分としては、日常生活において丁寧に事を行うことも食べ物を味わうこともできなかった。


 いや、その職を辞めて時間ができてからでも、身に付いた習慣はなかなか変えられない。掃除でも洗濯でも、自然を味わうにしても、それをじっくり行うことに対して、自ら進んで入っていけない。


食事のときは、テレビを見る習慣はなくなってもパソコンで動画を見てしまう。食事はおいしいと思いつつも、それは最初だけであとは食べていないと同じこと。口に物を入れるだけで、注意は映像に行ってしまう。


そんな日々を変えるのはなかなか難しく、今でもできているとはいえない。


 ようやく最近、食事のときはあえて動画を消すようなこともあるが、なかなかできず、また食べるだけにしていても余計な事を考えてしまい、注意は舌に行っていない。




虫の声を聞く喜び




 でも、少しずつ少しずつ、以前から比べればかなり先に行っている。


 冒頭の感覚を強く感じられたのも、またそこに永続して注意できたのも、日頃、「五感を楽しむ」という意味で「丁寧に生きよう」と「あえて」しているせいだろう。


短パン、Tシャツ、サンダル、そして夜の風・・・。それだけで無上の幸福感が漂ってきたのだ。


 僕は、鳥の声を聞くのも、虫の声を聞くのも好きだ。


 とくに、秋の虫たちの演奏には、もう何年も前からその見事さに酔っている。他の感覚はともかく、それだけは楽しんできたのだ。


 もしかして、秋の虫の声は夜であるから、仕事が終わり一日が終わり…という安堵感がさらに至福感に磨きをかけたかもしれない。


 あるとき、教派神道系の宗教を熱心にやっているグループ長の女性から「どんなとき幸せを感じる?」と聞かれた。


私は正直に、「夜、虫の声を聴いているときです」と答えた。


すると、その人は「私は、人を喜ばせる時が一番、幸せを感じるわ」と言った。


私の答えに対して、「自分の方が上だわ」というような含意を感じた。




宗教は人の感覚まで規定する




 彼女の答えは、宗教的にいえばとてもいいものととらえられるだろう。


 でも、そのとき私は自分の答えを否定された感覚を受けたのと、その宗教の教義にもある「“人を喜ばせることがもっとも幸福である”をそのまんま言っているだけではないか」と思った。


 もちろん、その人はそれまでも教義に則って、「人を喜ばせて」来たであろう。その際に幸福を感じたことも確かであろう。


でも、それ以外で幸福を感じることがないのか。この宗教の中では、誰もが異論を唱えることのないであろう、そんな当たり前のことを言って、なんの意味があるであろう。


 ほんとうに、幸せを感じるときはそれだけなのか?


本人しかわからないとして「虫の声を聞くことが幸せである」という答えが論外であるような態度をとるのは、やめてもらいたい。


 宗教と言うのは、そういうところがあるのだ。


皆、杓子定規に当てはめてしまう、そして、教義なり、教えなりになければ、排除してしまう。そこに、おとなしく従い、さらにその事柄に感銘をして共感したわけでなくても、積極的に関わっていき成果を上げることが是とされる。


その中にいない人間としては、実にばかばかしいことを、いかにも立派だとしなければならない、それが宗教ではないか。どの宗教、宗派でも似たり寄ったりであろう。


 企業もある意味、それぞれの社風や理念があり、そこに同調することを強く求められる。がゆえに、宗教教団と変わらないところも多いのであるが、そこに当たり前のように従い感覚を鈍らせていく。



身体感覚はすなわち個性である




 初めに戻るが、私がこの稿で言いたかったのは、タイトルにあるように、「五感を楽しんで」いれば、それ以外の欲望は、法外なものにはならないのではないかということだ。


 触覚でいえば、風が吹き抜けていく感覚、まったりとした空気に包まれる感覚、服の肌触り・・・


聴覚で言えば、鳥の声、虫の声、樹々を揺らす風の音、川のせせらぎ


嗅覚でいえば、緑の匂い、雨の匂い、夕食などの匂い、花の匂い・・・


味覚でいえば、自分の好きな食べ物、ほんとうにおいしい物、・・・

視覚といっても、映画などの人工的なものではなく、夕日や夕焼け、満月、三日月、広大な風景、花、植物・・・・


 生活の中で、もっと多くの感覚を味わっている、心豊かな人は、たくさんいるだろう。



 前のブログ記事で「理想の自我像を捨てる」ことを書いた。それは、「ほんとうの自分」に合った理想を追い求めるならば幸福になるが、自分からかけ離れた理想を追い求めていると、求めれば求めるほど幸福から離れていくという意味を込めた。


しかし「ほんとうの自分」に合った理想を見つけるのが難しいと思われたかもしれない。


 自分がわからないという人はこの世に多い。


 それには、まず、ここに書いた「感覚を楽しむ」ことが大切ではないか。


すると、「好きな感覚」「自分の気に入った感覚」「心地いい感覚」がわかる一方で、「嫌いな感覚」「自分が気に入らない感覚」「気色悪い感覚」もより意識するようになるであろう。


 それこそが個性というものだ。


 昆虫採集や解剖学によって得た自然の概念をベースに様々な論考をしている養老孟司氏は、「身体こそが個性」であると言っているのをYouTubeで見た。つまり大きい小さい、細い太い、足が速い遅い、容姿、…など一人一人、身体が違う、それこそが個性だというのである。

 

 ということはその身体で感じられる感覚も個性であるはずである。たしかに、たとえば腐った物の臭いを多くの人が不快に感ずるであろうが、微妙なところでは、嗅覚は人によって好きな臭いと嫌いな臭いがある。


 それは経験からだけではなく、もともとその人の身体が有していた独自の感覚というものがあるのだろう。


 専門家ではないので詳しい事は知らないが、確かに、男性より女性の方が鼻がきく人も多いし、身体が受け付ける臭いもそれぞれ特有なものがある。男性も女性も実は相手の臭いで選んでいるという。となると、異性の好みとは臭いの違いによって分かれることになる。

 身体とその感覚が、自分という個性である以上、個性という意味での「ほんとうの自分」は、感覚をまず十分に感じられるようになって始まる。


 私はかつて夢は大きければ大きいほどいいと考えていた。


 こうして自己を無視した法外な理想を長らく追い続けた私は、現在も「五感を楽しむ」初心者である。


 しかし、日々、感覚を意識するようになっただけで、得られる幸福感が大きくなるのだということに気づいた。

人から抜きんでて、拍手喝采を浴びなくても、大きな仕事を成し遂げて達成感に酔いしれなくても、今、身体で感じられれば、すべてを達成したと同じことであるかもしれない。


 また、その中心線からずれずに、延長線上で積み重ねて行けば、自分が求めていなくとも、いつの間にか他人から見て大きいと思われることをしているかもしれない。


 そんなことを感じている今日この頃である。

 


 数日間、感覚を大事にしてみる。人生で一度試してみるつもりでやってみると、別の扉が開かれるかもしれない。


                            

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