Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

「理想の自我像」を捨てて、のびのびと「ほんとうの自分」を生きる



西洋人より日本人の方がのびのびとしていた】




 現代の日本人が、窮屈な社会で息を殺して生きているのを見るにつけ、つくづく戦国時代の人たちは、のびのびと生きていたなあと思う。


 織田信長、豊臣秀吉、武田信玄ら戦国大名は、戦い続けることが使命であり、残酷で非人間的なことも数えきれないくらいしてきたろう。


 また、彼らを支える女性や武将たちにももちろん悲惨や悲劇があった。


 一方で、彼らにはどこか現代人にはあまり見られないすがすがしさ、底抜けの明るささえ感じる。現代人にない人間的な魅力を感じるのだ。

 



 そう思っているところへたまたま、伝記作家、小島直記著の『読書尚友のすすめ』(致知出版社・平成4年9月発行)を再びめくってみて、京大名誉教授で歴史学者の会田雄次がこう語っているところを見つけた。



「(前略)私はヨーロッパのルネサンスと日本の戦国時代をやってきまして、その二つを比較しますと、ヨーロッパ人はキリスト教的制約にがんじがらめになって、そこから脱出するのに、のたうち回って、悪戦苦闘している。

その点、戦国時代の人間は精神を拘束するものはなにもない、といっていいほどですね。幕末の人間は朱子学の影響もあるし、武士道というのがあって、それに拘束されているようなところがあるが、ヨーロッパに比べたら、ないに等しい。(後略)」



 

 解剖学者の養老孟司がYouTubeで言っていたのだが、かつて、彼の友人の、ウェールズ出身の作家C・W・ニコルに「日本に来て何が一番よかったか」と聞いたところ「宗教から解放されたこと」と答えたそうだ。

 


 その後すぐに会田雄次の前掲の言葉を読んだ。

 
 自分の率直な感想は「宗教かあ。さもありなん」であった。




宗教によって押し付けられた「理想の自我像」】





 少なくとも、ルネサンスの時代から現在に至るまで、西洋はキリスト教にがんじがらめにされてきたという。

 

 宗教によって縛りつけられたものとはなんであろう。



 一つには自我像ではないか。


 
「理想の自我像」を押し付けられ、そこに向かっていく人生を強いられた。



 それ以外は悪であった。



 神という絶対的な権威者の名の下に、神を崇め、決して近づくことのできない神に近づくことのみが善とされた。



 それが、西洋人を縛り続けた「理想の自我像」ではなかったか。



 その点、日本では、宗教による縛りが過去も現在もそこまででないような気がする。



 ならば現在の日本人を締め上げて、窒息させそうにしているのは何か。



 それは「経済社会」であろう。それへの人々の妄信、服従ぶりは、現代日本の宗教と呼んでもいいような様相を呈している。

 





【「捨ててこそ!」】





 話を元に戻そう。



 戦国時代といえば、歴史的に言えば中世の終わりにあたる。

 日本の中世は、平安末期から戦国時代までをいう。

 


 中世の多くの日本人は「捨ててこそ」といらないものをどんどん切っていった。

 現代のように、物にあふれた時代ではない。捨てたのは、地位や名声、金、不必要な人間関係など心の問題であったろう。

 


 仏教学者の紀野一義はこう書いている。




「(前略)中世の日本人の中には、捨ててあるいた者がたくさんいる。捨ててゆかなくては大事なものは入ってこないということが、よくわかっていた。


 捨ててあるいた元祖は空也上人である。かれは「捨ててこそ」と教えた。「どうしたら安心できるか」と問うた千観内供(せんかんないぐ)に、「捨ててこそ」とたったひとこと、白刃で斬り捨てるようなことばを教えて去っていったのもかれである。千観内供はその一言に打たれ、内供奉(宮中の内道場に奉仕する高徳の僧)という名誉ある地位を捨てて行方知れずとなった。



 この空也上人の「捨ててこそ」の精神が、それ以後の人たちに与えた影響は、はかり知れないものがある。西行もこれに学び、一遍もこれに従い、芭蕉もまたこの人の流れをくんだ。




 西行法師はあらゆるものを捨てていったが、ついに歌だけは捨てられなかった。(後略)」



           紀野一義著『いのち』(PHP文庫、1987年発行)

 




 つまり、空也上人をはじめとした日本の宗教人は、「理想の自我像」にはとらわれずに、むしろどんどん余計なものは切っていった。

 

 捨てて捨てて捨てて歩いた。その結果残ったものこそが、唯一、自分を活かす道であることを知っていたのであろう。




【「理想の自我像」を捨てて、「秘密の扉」を開く】




 西行でいえば、「歌」というものが、現代風にいう自己実現の道であり、最後の最後まで残る「自我」の瘡蓋(かさぶた)であった。

 彼が歌だけは捨てなかったおかげで、我々後世の者たちは、そこに描かれた高い境地を、ほんの端くれかもしれないが、吸収することができる。

 

 彼の「歌」に当たるようなものが、見つけられるか否かが、中世の日本でも現代の日本でも変わらない人生の「秘密の扉」になるだろう。

 
 そこをくぐり抜ければ、まったく別の世界にいける。

 

 社会心理学者の加藤諦三は著書、『人生の勝者は捨てている』(幻冬舎新書、2024年発行)のあとがきでこう書いている。








「とにかく本当の自分に、自分が気づくことが救いへの道である。自分に気づくことなしに心理的な自立はありえない。

 
 いつも悩んでいる人は、歪んだ「理想の自我像」を心の中で断ち切ることである。

 
 まず自分が「こうなりたい」と思っていることが間違いだと気づけば、夜明けは近い。自分が「こうなりたい」のではなく、「こうなりたい」と思わされていたと気がつく。 

 
 歪んだ理想の自我像への執着を断ち切る。歪んだ理想の自我像にそっと別れを告げる。

 
 そして自らの力の限り生きる。自分が気づいた新しい自分が生まれる。(後略)」

 






 我々現代人が真にのびのびと生きるには、まずは、余計なものをどんどん捨てていくことである。それはものというより、頭の中にこびりついた思考だ。


 宗教による理想の自我像も、資本主義によって作られた理想の自我像も人間の本性からいえば、単なる思考であり、付属物である。


 今、経済的に発展途上にある国の人びとが経済的な理想を求めて行くことはまだしも、日本人はその虚しさを知ってしまった。

 

 でもいまだにしがみついているのが現状であろう。

 

 そうした余計なものを捨てて、本来の自分を生きる。

 

 それこそが、拘束と服従にあえぐ現代人、特に日本人をのびのびと生きさせる唯一の方法ではないか。



                         (END)