「自分のためにすること」と「人のためにすること」
論語の中で、もっとも好きな言葉が
古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす
である。
多くの本では、この翻訳を
昔の学者は自分の修養のために学問をしたが、現在の学者は人に知らせるために学問をしている
としている。
つまり、「己のためにする学問」とは自分の成長・修養のため、「人のためにする学問」とは他人に見せるためということである。
「自分の修養のための学問」とは、論語の世界の当時であれば、まさに人格を磨くため、君子(立派な人格者)になるための勉強であったろう。
私は、現代でいえば、もっと概念を広げて、「己のためにする学問」とは、「自分の興味・関心のためにする学問」といってよいと思う。
(『論語』では「学問」になっているが、「学問」でなくても、あらゆることに、たとえば工業、手芸、スポーツ、芸術、プログラミング、農業・・・あらゆる分野にあてはまることである。)
「自分の好きー興味・関心のためにすること」は人間を成長させる
実は、「自分の興味・関心を追求する学問」は、孔子が言っていたような「君子になるための学問」ではなくても自ずと人格を磨いていく。
なぜならば、自分の「好き」をやっていけば、自ずと心が成長・成熟していくからだ。
自分の「好き」なことや、「興味」「関心」を追求していくことは、そのような欲求がある自分を知っていくことでもある。
自分を知っていくことは、意識の成長・成熟につながる。
たとえば、人文学とは真逆である物理や化学などの科学であっても、その他、経済学や社会学などの社会科学であっても同じである。
日本のノーベル賞受賞者には科学者が多い。受賞後のインタビューを見て思うのであるが、理工系の研究一筋で行ってきた彼らの多くに人格的な余裕、大きさがある。
決して、初めから賞を取ろうと思ってやってきたのではないはずだ。その研究の対象となったものがとても好きで仕方なく、また興味をもち、関心を追求してそこから世界的な研究へとつなげて行ったのだろう。
逆に、対象が好きでもなく、名誉や出世、金のため、世間のために研究に携わるような人は、賞も獲得するのは難しいだろうし、たとえ栄誉を得たとしても年を取れば取るほど人間的に萎れていく人だろう。
自分の興味・関心や、好きがいつまでも見つからず、これが仕事に役立つから、お金になるから、出世するから、かっこうがつくから、と勉強・学問をしていくのは、真の意味で人間を成長させない。心が成熟するのにつながらないからだ。
自分を知り、苦手、好きの両方を認めて受け入れるからこそ、人は成長し、大人として成熟していく。
(好きなことをやっていて人間として成熟しない人間も散見するが、それはそれで別の問題があるのだろう。
それと好きなことをお金や名誉、出世のために行うようになった人も、内面の成長はし難いであろう)
つまり「人のための学問」すなわち「他人に見せるための学問」をやっていたのでは、人間として成長につながらないのだ。
宮本武蔵『五輪書』にも書かれている「人に見せるため」
最後に、江戸時代初期の剣豪、宮本武蔵が『五輪書』でこれと同じことを書いているので、引用する。
世の中をみるに、諸芸をうり物にしたて、我身をうり物のやうに思ひ、諸道具につけてもうり物にこしらゆる心、花実の二ツにして、花よりもみのすくなき所なり。とりわき此兵法の道に、色をかざり、花をさかせて、術とてらひ、或は一道場或いは二道場などと云て、此道をおしへ、此道を習ひて、利を得んとおもふ事、誰か云、なまへいほう大疵のもと、まこと成べし。
【訳文】世間には、諸芸を売り物につくりあげ、自分自身を売り物であるかのように考え、またいろいろな道具にしても、その機能より売れればよいとうようにこしらえる傾向がある。実よりも花――すなわち、見かけだけがよくて、内容は空疎なのである。
とくに、この兵法の道において、いたずらに色をかざりたて、花を咲かせるだけで、術をひけらかし、あるいは何々道場などと称し、教えるほうも習うほうも、利をむさぼうろうとしている。俗にいう「生兵法は大けがのもと」というのは、本当のことである。
神子侃訳『宮本武蔵 五輪書』(徳間書店)
当時、江戸時代初期の兵法すなわち剣術の世界でも、兵法を人に教えて金儲けの手段にする人がたくさんいたからこそ、武蔵も『五輪書』に記述したのだろう。
その人たちは、金をもうけられても、兵法(剣術)は弱かった。
「見せるために」やってきただけで、人を切る、強くなる方の鍛錬に人生をかけてこなかったからだ。
だから「生兵法は大けがのもと」といっている。
自分が強くなるために生涯をかけてきた剣客が、もしも道場破りにきたとして、真剣(ほんものの日本刀)で切りあうかどうかはわからないが、道場主は、命の危険にさらされるかもしれない。負けるだろうからだ。
ともかくどんな分野でも、『論語』の
古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす
があてはまる。
そして、その所属する分野で徹底して「己のためにす」を実行していけば「人のため」になる。いずれは大きく深く人々に喜ばれる存在となるであろう。
(END)
