私が若かった時代―30~40年前と違って、今の10代20代の人たちは大変だと思う。
と思う一方で、その当時は当時でたいへんだった。
【食べたいものがない】
今は便利でなんでも揃っている。コンビニに行けば、一人で食べるものもいろいろある。
ところが当時、家族といっしょに食事をするときはいいが、一人で食事をするときには、料理ができないとボンカレー(レトルートカレーのことをボンカレーと呼んでいた)やインスタントラーメン等、限られたものになってしまった。
今思うと、あまり身体によくない添加物や加工食品をたくさん体内に入れてしまった。しかしそういうものしかなかったから仕方がない。
つまり、当時は、今と比べると、断然、不便だったのである。
【殺人的な電車】
鉄道だって、地下鉄が在来線に乗り入れていなかったのであるから、いちいち乗り換えなければならない。だから、ターミナル駅は混まざるを得ない。
通勤通学時間は、現在も混んでいるが、もっと混んでいた。ドアのところで駅員が乗客の背中を押し込んで、ぎゅぎゅう詰めのところをさらに車内をパンパンにして扉を閉めて発車する。そんなシーンはざらに見られた。
車内では押し込められて息がつけなくて、死にそうに苦しかったこともあった。
ホームドアなんてものはなかったのであるし、ラッシュ時の駅のホームは現在よりとても危険な場所であったはずである。
ところが大きな問題に出くわしたのを覚えていない。
私は中学高校大学と電車で通学していたが、人身事故すなわち自殺によるダイヤの乱れなどは一度も経験したことなかった。いや、記憶にないだけかもしれないが、それくらい少なかったのである。
ところが、今は、電車に乗るたんびに、人身事故による遅延にでくわす。様々な鉄道会社がつながっていて影響しあっているので、どこかの駅や場所で何かあると、影響を受けて、ダイヤが乱れる。
何よりも、自殺者がそんなに増えたのが信じられない。以前もいたが、そこまでは多くなかった。
【きたない公衆トイレ】
駅でもそうだが、公衆トイレはどこでもきたなく、夏場などハエがブンブン飛んでいたのは当たり前だった。
公園には、ハエトリガミ(粘着テープにハエをとまらせて、捕獲する道具)をぶら下げている公衆トイレもあって、罠にかかったハエが何匹も張り付いて死んでいた。残酷だなあと思ったものである。
自分の体にたかるハエは追い払っても追い払っても、やってきて、辟易した。とてもうっとおしく感じたのを覚えている。
夏の暑さで汗がにじんだ肌にハエがたかっているのが目に焼き付いている。人の肌に乗っかりながら、図々しくも両前足をすり合わせている。あのふてぶてしさ。汗に足を取られることもなく、捕まえようとすると察知したがごとく飛び去って行く。
だからハエトリガミに張り付いた無残な姿を見て、快感もあった。
【街を走る強烈な臭い】
私が乳幼児の頃は、汲み取り式のトイレが多く、糞尿を入れたバキュームカーが街を走った。それがとても臭くて、横を通り過ぎるだけで無理矢理、異次元の悪臭空間の中に投げ込まれた。
次第にバキュームカーの臭いが気にならなくなった。改良されて、臭いが周囲に立ち込めないようなものになったのだろう。さらにその先には、バキュームカーそのものを見ることが少なくなり、最近は全く見ていない。
【公衆電話で鼻をつまむ】
スマホなんてもちろんなくて、外で電話をする手段は公衆電話のみだった。だから、仕事の帰りの時間帯は、公衆電話が設置されている場所に人々が列をなして並んだ。
公衆電話は10円玉を入れるので、10円玉はいつでも財布の中に入っていなければならなかった。もっと長い時間話したい場合は、100円玉を使って電話をかけられる。ところがあいにく、10円玉は忘れてしまって、100円玉しかないから、短い時間でも100円玉を使わざるを得ないときはとてもくやしかった。
みんな当然、受話器に口を近づけて話すのであるから、受話器は臭くなった。それがたまらなかった。
でもそれが不衛生だとか、内心多くの人が思っていたとしても、問題になったことなど聞いたことがない。そのうち、臭い消しがついた受話器が現れた。と思っていたらみるみるうちに、公衆電話の数が減って行き、ついには街から無くなってしまった。
【現在と当時と何が違うのか?】
昔は不便であり、非衛生的であり、異質なものグロテスクなものが散見され、非効率的であった。
今は便利であり、衛生的であり、均一化され、こぎれいで、効率的である。
つまり、合理的な社会である。現代風の言葉を使えば、コスパ、タイパがいいということになろう。
合理的な社会、もしくはどんどん合理化していく社会とは、合理的であること以外を選択できない、自由がない社会である。追求していくと、どんどん均一化して、単一化していく。つまり、合理的なこと一つへと絞られていく。
なぜ自由ではないかについて、その反対を説明した方がわかりやすいかもしれない。
合理的でない、非合理な社会とは、合理的であること以外、あらゆる手段を選択できる。そういう自由がある。
合理的であることにこだわらなければ、方法・手段はたくさんある。その意味で自由に限りなく近い。
ところがそこにこだわってしまうと、「もっとも合理的であること」以外はは、捨てられるわけで、選択肢が少なくなる、すなわち自由度が限りなく減って行くのである。
【あの頃に戻れますか?】
だからといって、数十年前に戻り、コンビニがなくて、ちょっとだけ食べ物を買おうとしても、商品がない、または限られている。夜急に食べたくなっても、買う場所はない。朝、お弁当を買っていくということはできない。
鉄道の数も今よりずっと少なく、相互乗り入れしていない、ラッシュアワー時には駅の改札口やホーム、電車内が超過密になる。
各家庭のトイレは汲み取り式に戻り、街にはとっても臭いバキュームカーが走っていて、脇を通り過ぎるときは息を止めなくてはならない。
公衆トイレに行けば、便器は足の踏み場もないほどに汚れていることがあり、ハエがビュンビュン飛んでいる。
スマホや携帯電話がなくなり、皆、家への帰るコールをするのに、公衆電話に並ぶ。ようやく受話器にたどり着けば、とっても臭くて、会話するのが嫌になる。
そんな状態に戻りたいと思うであろうか。
戻れるだろうか。
私は、正直、そういうことを経験して今に至るのであるから、戻ったら戻ったでなんとかなるとは思っているが、そういう社会を知らない若い人々はきついだろう。
何より、人類がいったん滅亡するような危機に陥り、リセットされなければ、後戻りすることはないだろう。
【「昔はよかったの正体」とは?】
タイトルにもどって「昔はよかったの正体」とはどういうものであろうか。
街やお店に今よりは、商品がない。
ラッシュ時の電車やバス、公共交通の混み方が殺人的
公衆トイレはきたないところが多い。
ハエがぶんぶん飛んでいる
もちろん、そんな状態に戻りたいと思う人は少ないわけで、それならば「どんな昔がよかったのか」ということになる。
それは、それら「不便さ」、「非衛生的」、「異質なものグロテスクなもの」、「非効率的」・・・
つまり合理性の背後にあった「自由」で「型」にはめられることのない「人間的」なもの、そしてそれらから発する「余裕」というもの、それこそが「昔はよかった」の正体ではなかろうか。
今の社会は、合理的になったがゆえに、そこに則って生きることを要求される。
人間にとって、人間の心にとって、真に合理的であるとは、できるだけ「自由」に生きることではないか。
本来、人間は自分の意志に基づいて、自由に選択し、生きるようにできているのではないか。社会生活の中で、制限が出てくるだけで、その極度に達した状況が現代であろう。
ただし、もう数十年前のように社会を戻すことはできない。
一人一人が自由を取り戻そうという意識をもって、生きて行くべきだ。
それは社会変革を起こそうということではなく、人生の選択や日々の生活によって、社会で決められていることばかりを行うのではなく、合理的でないことも、自由意志によりやってみることである。
具体的にはどうするか。
たとえば、多くの人は通勤を最短ルートで通っているだろうが、そうではなく、ときどきは遠かろうがどうであろうが自分が行きたい方向にいってみる。たとえば、帰宅時間の1時間はルートに関係なく、歩いてみよう、電車にのってみようとやってみる。
家とはまったく異なる方向に行ってしまうかもしれない。しかし、1時間経過するまでは自分の感覚に随う。
そして、時計が1時間経過したら、そこから家への最多ルートで帰宅するのだ。
そんなことして、ともかく非合理的なことを含めた選択を自らの意志で行っていかなければ、人間性が破壊されてしまう。そんな社会になってしまったように思う。
電車にのるたんびに、人身事故で電車がとまってしまうような社会を、普通だと思ってしまう感覚が異常であるということを一人一人が思い出さなければならない。
(END)
