第一章:なぜ今、内側を見ることが大切か
あなたはどう生きればよいか迷っているかもしれない。
でも、これだけ世界が混乱してしまうと、もう外側には、その答えはないと
思った方がいい。
いくら、外側でこういう生き方がある、こうすれば成功する、
といっても、あまりにも多すぎて選べないであろう。
だから、自分の内側に問うしかないわけだ。
これは絶対的なチャンスである。
内へ向かうのは、本来人間があるべき姿、
内を主にして、外を従にするべきなのだ。
それが、社会自体が外側をみることを人々に強要して
きたから、よほど気づいた人でなければ、
自分の内側を見ることをできないできた。
しかし、より一層、外側ばかりを気にしていたら、
何がなんだかわからない時代になったからこそ、
反対側に心のベクトルを向けることがしやすくなった。
禅の本『臨済録』にある「随所に主と作れば、立処皆な真なり」は
とても有名な言葉であるが、
その前後に、以下のように『自分の外側』を指摘する言葉があることを知る人はそんなにいないだろう。
「(前略)古人云く、外に向かって工夫を作(な)すは、総べて是れ痴頑の漢なり、と。你且く随所に主と作れば、立処皆な真なり。境来たるも回換すること得ず。(後略)」【訳文】古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。
「随所に主と作れば、立処皆な真なり」の前に、(以下訳文であるが)「自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である」。その後に「いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ」とある。
つまり、「自分の外側ばかりを見て、変えよう変えようとするのは愚か者であり、こうした外的条件をいくら変えたとしても、真にその場を取り替えたことにならない」ということだろう。
「随所に主と作れば、立処皆な真なり。」の特に「随所に主と作れば」の部分であるが、この訳文にあるように、様々なウェブサイトを見ても「その場その場で主人公となれば」と訳されている。
「随所に主となる」が「あらゆるところで主人公となること」であるのはそうだとして、「主人公になる」という言葉に誤解が生ずるように思う。
あらゆる場面で「主人公」になろうとして、活動すると、リーダーになるとか、主体的に行なうとか、外的なこととのからみで考えてしまいやすいのではないだろうか。
あくまでも、「主となる」とは、自己の内的な問題であるはずである。
「随所に主となる」の前後の文から見てもそうである。「自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である」。「いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ」。
「自分を主体にして外に働きかける」、「自分から外側を変えようとする」というのは違うのである。
「主人公になって外側に働きかける」のが「随所に主となる」ではないとして、そうなるにはどうしたらよいのか。どうしたら、ほんとうの意味で「その場その場で主人公になれる」のか?
いつでも自分の内側を見ていればいいのだ。
第二章:内側を見る具体的な方法(五感の活用)
しかし、自分の内側を見るにはどうしたらいいのか。
スピリチュアルなどでは、自分の内側を見ろというが、ただそう言われてもわからないという人も多いであろう。
外界がひっちゃかめっちゃかで、何がなんだかわからない世界がある。
その事象だけを見るとき、聞くとき、触れるとき、嗅ぐとき、味見するとき、どう感じているかを意識するのである。
見ていて目をそらしたいのか、いつまでも見ていたい心地がするのか?
聞いたとき、気持ち悪いのか、爽快なのか?
触れるとき、ぞっとするのか、あったかく感じるのか?
嗅ぐとき、すっきりするのか、寒気がするのか?
何かを食べるとき、幸せを感じているか、吐きたくなっているか?
こうした感覚を意識して感じるだけで、もうベクトルが内側へ向かっている。
そもそも五感というものは、身体で感じる。身体というのは、外側との接点であり、内側との接点でもある。
つまり外と内との境目である。
(前掲した『臨済録』の一文に「境来たるも回換すること得ず。」とあり、「境」を「外部条件」と訳していたが、「内から外への境目」ということで、境目からの外側を指してのことだろう。)
その身体で発生する五感とは、外側から内側への入口であり、内側から外側への出口であるといってもよい。
だから、何かを見たとき、聞いたとき、触れたとき、嗅いだとき、食べたとき、
「あえて感じる」ということは、もうすでに意識のベクトルが内側へ向かっている。
その時点で、スピリチャルでよく言われる「自分の外側でなくて内側を見なさい」をクリアしていることになる。
第三章:その奥にある「X」を見る
さらに、見たとき、聞いたとき、触れたとき、嗅いだとき、食べたときに感じる、気分いい、心地悪い、あたたかい感じ、臭い、おいしい、・・・・等を意識するとともに、さらにその奥、それらを引き起こしている何か〝X″をみるのだ。
みるといってもわかりにくいかもしれないが、別の表現でいうと、そこを意識するのだ。
つまり、気分いい、心地悪い、あたたかい感じ、臭い、おいしい、・・・・等の感覚を発生させている何か―それが本来の自分があるところなのだが、その〝Ⅹ″をみる、すなわち意識する。
それでより一層、自分の内側を見たということになる。
先にも紹介した『臨済録』に以下の文がある。
赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。【訳文】
この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!
この、禅僧、臨済いわく、我々の肉体を出たり入ったりしている「無位の真人」が〝Ⅹ″であるといえるだろう(禅の専門家から怒られるかもしれないが(苦笑))。肉体ではない「ほんとうの私」=真人が〝Ⅹ″である。
「随所に主となる」という視点から言えば、つまり、〝Ⅹ″を主体におけば、肉体を出たり入ったりしているというより、肉体が出たり入ったりしているというのが本来であろう。
第四章:内側を見ることで起きる変化(落ち着き、幸福)
これをしたからといって、すぐに「自分がどう生きるか」がわかるわけでなく、繰り返していく内に、だんだんとその方向に行かせられると言った方がいいかもしれない。
だからといって即効性がないわけではない。
内側を見ていると、外側の事象をただ見ているときより、落ち着きあることに気づくであろう。
少なくとも私はそう感じる。
人によっては、幸福感を言う人もいるかもしれない。
なぜそうなのか・・・。こうやって、自分が自分を見てくれているわけであるから、自分は嬉しくて幸福なのである。
第五章:自己への関心=愛
外側ばかりを見ていたときというのは、自分を完全無視していた。
マザーテレサは「愛の反対は、無関心」といったが、自分を見ていないということは、自分に無関心ということであり、自分を愛していないということである。
だから内側を見れば見るほど、子供が親の愛の視線を受けてすくすくと育つように、ほんらいの自分は次第に育っていくであろう。
END
