【今日の出来事「“精神を背中に住ませる”ことの物凄さ」】
私は、JR山手線新宿駅で電車が停車したのに気づかなかった。
下車する客が降りきって、乗車客が車内に入る頃、ようやく停車駅を確認して、
慌てて電車を降りようとした。
そのときに、乗客の一人の左肩に、自分の左肩が激しくぶつかった。
自分より恐らくかなり若いその男は、意図的に悪意をもって強くぶつかってきたのは明らかだった。
私が降りるタイミングが遅かったからであろう。
不思議なことに、怒りの感情がまったくといっていいほど
湧いてこなかった。
過去の経験に照らして、このような場合、
遅く降りた自分が悪かったと反省すると同時に、
「だからといって、悪意をもってぶつかってくるのはおかしいだろう」
と、相手の人間に対して、強い怒りを抱くはずである。
ところが、今回は違った。。
「ぶつかった野郎は誰だ?」と振り返ることもなく、
颯爽とそのまま前に進んだ。
相手の男は、電車の中から、私の様子を見ていたかもしれない。
私が振り返って目を合わせようものなら、ケンカをふっかけてきたかもしれない。
あんなに激しく、悪意をもって肩にぶち当たってきたのに、
自分にも落ち度があったとはいえ、
今回は、いつもと違ってなぜ、こんなにも心が静かだったのか‥‥?
はっと気づいた。
背中だ。
その日は家を出てから、背中を意識するように、あえてしていたのだ。
江戸時代末の儒者、佐藤一斎の『言志録』にあるように、
「精神を背中に住ませる」ことをしていた。
(※この言葉の詳細は、次回に紹介する。)
だからぶつかった時も半ば無意識に背中を意識していた。
そして、その後も背中を意識し続けた。
怒りが湧いて来なかっただけではない。
あんなに激しくぶつかっても、体は揺らがなかった。
そのままなんともなかったかのように、前に進んだ。
しかも、書物がいっぱい入ったかなりの重量がある
リュックサックを背負っていたにもかかわらず、
よろめくことはなかった。
なぜか背中を意識すると、
伸ばそうとしなくても、背筋がピンと伸びる。
だから、正中線がしっかりと立ち、
身体がバランスの取れた姿勢を保てるの
かもしれない。
精神を背中に住ませる、すなわち背中を意識する
ことの効力を腹の底から実感した一日であった。

【若きカメラマンが残した「背中」の写真】
「背中」で思い出すのが、写真である。
私の従兄は、カメラマンであったのであるが、20代の若さで自ら死を選んでしまった。
彼がちょうどなくなる頃、新人のカメラマンとして作品が『東京人』という雑誌に掲載された。
その写真で、初めて彼の作品を見たのであるが、
人の後ろ姿ばかりを写している。
街路を歩く子どもの後ろ姿、交差点を渡る通行者の背中、などなど。
こんな写真が有名な雑誌に掲載されるだけの価値があるのか?
当時私は、20代後半の年齢であったが、その意味が分からず、従兄は変わった写真を撮っていたのだなと思っただけであった。
ふりかえって思うのは、写真の技術は自分には未だにわからないが、彼は成熟していたのだと思う。
よくぞ、20代で、背中の写真ばかりを撮ったものだ。
あれからおよそ30年後の現在の年齢になって、ようやく実感がある。
人間の本質は面(おもて)より、背に表れる。
面―顔ばかりを見ていたのでは見誤る。
化粧や笑顔等によって顔は作れる。
女性も男性も日々その努力を多かれ少なかれしているだろう。
しかし背中には、その人の隠しようがない真実が現れる。
ただし、自分の顔は鏡で見られるものの、
自分の背中はなかなか見ることはできない。
理想は気が満ちていて、かつ爽やかな後ろ姿。
特に気を感じさせなくても、すっとしている後ろ姿も見事だ。
勢いのある人物になるほど、エネルギーのスケールが大きくなる。
背筋が伸びている方が気が発しやすいであろうが、
背中が曲がっている否かに関わらない。
そういう人は、前を通り過ぎるだけでまるで風のような気の圧力を感じることがある。
一方で、どんなに美男、美女でも、さびしく、しょんぼりしている背中の
人もいる。
「眼光紙背に徹す」ということわざにも「背」という文字は使われている。
この意味は、「書物を読むには、紙の背後を見るように、文章の真意を求めて読むことが大事である」。
物事の多くは、裏側、つまり背後に真実がある。
人間も同じである。
私のカメラマンの従兄は、学校を卒業してすぐの頃から直感で、すでに気づいていたのかもしれない。

(※精神を背中に住ませる~後ろの世界にすべてはある~(3/3)に続く)
