1. フジテレビ問題とテレビの変質
いま(この文を書いている時点で)、フジテレビ問題の第三者委員会の発表が行われている。
かつてテレビの制作にかかわっていた者として言いたい。
私は日本のテレビが悪くなったのは、視聴率-金、至上主義になったためだと思う。
視聴率がなかった頃は、どうすれば面白い番組を作れるか、どうしたら面白くなるか、その番組で面白いとはなんなのか(例えば、感動も、笑いも、知的好奇心を満たすこと、いい番組……、も面白いである)を皆、必死に考えていた。
2. 「面白い」の追求と誠実さ
テレビではないが、アニメ映画の監督、宮崎駿は3つの基準を映画制作に要求している。
1.面白いもの、2.作るに値するもの、3.お金になるもの。
私から見れば、1.も2.も、「面白い」であり、3.すらも上述した「面白い」の概念に入るかもしれないと思っている。
「面白い番組」を作ろうという思いは、視聴者への「誠実さ」ゆえである。
バラエティー、情報番組、ドキュメンタリー、教養番組、ドラマ、アニメばかりではない。
報道は詳しくないが、どうしたらいい報道ができるか、いい報道番組を作れるかを考えて当事の報道マンは作っていたろう。
かつては、ある意味、プロの職人を中心とした集団がテレビ局だったのだ。
3. 視聴率至上主義とその弊害
それが1990年代頃から、みんな数字を追いかけるようになってしまった。
それは、制作者が視聴者を見ているのではなく、スポンサーや株主、お金のみに意識を向けているということである。
視聴率を上げるには、刺激的な番組をつくる、人気のタレントを出演させる。
たとえその範囲内での工夫があっても、ゼロから徹底して「面白いものを作ろう」という意欲も理念も技術もなくなってしまった。
それは、とても安易なことであり、視聴率が高ければよいという一時しのぎであり、将来が「尻つぼみ」となるに決まっている馬鹿な方向である。
4. 「尻つぼみ」と日本社会の縮図
この「尻つぼみ」は、放送業界や芸能界だけのことではない、日本社会のあらゆるところで起こっていることだろう。
例えば、大学等の研究・教育機関において、目先ですぐに金になる技術ばかりに投資して、数学や物理などの基礎研究や、文学や哲学、歴史、古典など直接利益を生まない学部や学科は切り捨てる。
日本初のノーベル賞受賞者であり、ノーベル物理学賞受賞の科学者、湯川秀樹は、中国古典への造詣も深かった。
彼以外にも日本において多数輩出してきたノーベル賞も、今後受賞者は減っていくことだろう。
5. リスクと情熱、そして中居正広の失敗
ともかく儲かるか儲からないかはわからないが、
リスクを負ってでも、それが日本にとって、
また人類にとっていいと思われることならば、
研究したり、そこに情熱やお金をかけることは大切だ。
たとえ失敗したとしても。
自分も地球の一隅で、
塵のような存在でありながらそんなことを思って
ささやかなことを目指している。
今回のフジテレビ問題の中心人物であるスマップというかつての国民的アイドルグループのメンバーであった中居正広は、
フジテレビ元社員に性加害を行ったとして、
倫理的側面においてのみ責められているが、
結局はエンターテイナーとしても二流、三流だったのだ。
ほんとうの一流だったら(ほんものだったら)あんなことはしない。
人間の本質を学ぶなど、司会者としてエンターテイナーとして、
向上するためにすべきことはいくらでもあったはずだ。
彼はもう人生の目的を失っていたのではないか。
6. 自省と日本の文化復活への問い
その彼が日本のトップの司会者として長年君臨してきたことを制作者もスポンサーもそれを支持してきた国民(視聴者)も本当は恥ずかしいと思わなければならない。
犯罪がそこまで進んでいることは知らなくても、
音楽や映画、俳優、タレント…日本のエンターテイメントと
それに関連することがアニメなどほんの一部を除いて、
世界水準にとうてい及ばないことを
早くからある程度わかっていながら、
口を開けたまま、ただ遠くから眺め、
無視していた人もけっこういたであろう。
自分もその一人である。
自分はこれでよかったのか?と自省の念を込めて思う。
そしてこれからどうするか?
日本の文化を復活させ、
世界に貢献するために何ができるか?
一人一人が自分にそう問いかけても、
決して意味がないことではない時代が
とうとうやってきたのだ。
(END)
