1.「今」を輝かせることが過去と未来を解放する
「ほんとうに、かつてない未来を創るには、過去を捨てなければならない。
過去も未来も手放せば、今の自分は、自ずと輝く。
でも、今日、気づいたのは、
先に今を輝かせれば、過去も未来も手放しやすいのではないかということである。」
自分が輝くことは、外に見せるものではない。
自分が輝きを感じていればよい。
自らが輝いているなあと自覚していることだけが大事である。
自分が楽しく、生き生きとしているとき、
たとえば、好きな人とこれからデートをしに行く前は
なんとなく、自分が輝いていると感じる。
普段より、光っているようにも思える。
また、何か自分が目指しているものに夢中になって
向かっているとき、ふとした瞬間に自分を客観視して
「おお、なんとなく、光っているな」
「わたし、エネルギーがいつもより外へ発散しているなあ」
とか、
「俺、なんか燃えている」
というものがあるものである。
そのときは、外から見ても、生き生きと見えたり、
エネルギーを感じられることが多いだろうけど、
その外側から見た自分、誰かの目を通して見たものは、
とらわれないほうがよい。
「いつもより周囲から注目されてるように感じる」
と思うこともあるかもしれないが、
「ああ、私は、光っているのかなあ」
と参考にするだけでいい。
ともかく、自分の輝き、光り、エネルギー、熱…を
自分で感じればよいのである。
そして、それを受け止めているときは、
「過去」でも「未来」でもない「今」にいるときなのである。
2. 輝きは自分の内面の問題
ようするに、輝くことが大切なのは、
人に見せ、その結果、人を誘導したり、
社会に影響力をもつためではなく、
自分にとって、大切だからということなのである。
人から輝いているといわれても、
自分が自分で輝きを感じなかったら、
どんな意味があるだろう。
人から情熱的だと言われても、
自らの内部にある情熱に心地よさを感じなければ
なにがいいのだろう。
あくまでも自分の内面の問題である。
しかし、たしかに本人が心地よく、
それが外に光を発している状態であったとしたならば、
間違いなく、外側にもいい影響を当てているだろう。
よく不機嫌は連鎖するというが、その逆で、
「明るい光」は波紋のように、周囲に広がる。
でも、それは本人が輝いていれば、自ずと
伝わっていくものであって、
周囲を照らすためという目的がなくても、
そうなる。
日本語の古文で使われる「おのずからなる」
である。
だから、他人の目など気にせず、自分が輝けば
いいのである。
新約聖書マタイ 5章16節に
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」
という言葉がある。
正式な意味はわからないが、
その言葉を使って説明すれば、
「自分の光を人々の前に輝かそうとして、光を発する」のは
間違っている。
少なくとも、私がここで、述べようとしている「光」とは
違う。
3. 「本然の自分」から生まれる自然な輝き
「世の光」とはすでに概念であり、そうなろうとしている
こと自体、すでにもう光を遮っている。
なぜならば、その人の光を遮るのは、
「思考」という蔽いであり、その「思考」から発するところの
「感情」であるから。
われわれ多くの人間は、
常識や倫理、宗教、伝統、自分の思い込みなどの
「思考」によって、
「生のままの自分」を封じ込めてしまっている。
本来は、光ある存在(もしくは、なにものか)である
自分を光なきものにしてしまっている。
「生のままの自分」とは「本然」ともいう。
「本然」という漢字は「ほんぜん(honzen)」
とも「ほんねん(honnen)」ともいう。
ロダンに影響を受けた彫刻家でもあった日本の代表的詩人、高村光太郎は、
あまり知られていないが書家でもあった。
そして、彼が書いた作品で、文芸誌の口絵に使われたものに
「本然」
があった。
彼は、中国の古典、四書五経のひとつ、『中庸』を愛した。
そして、そこに出てくるのが、「本然」である。
中国で開発されたAI、DeepSeekによると、
「『中庸』は儒教の重要な経典の一つで、人間の道徳的完性(善)を追求する思想を中心に据えています。この言葉も、その思想の核を表すと言えるでしょう。」
【読み下し文】
外誘の私を去って、その本然の善を充てんことを欲す。
【現代語訳】
外界の誘惑に迷おうとする私欲を去って、その本よりしかるところの善を充実せんことを欲するのである。
「本然」は「もとより然り」と読まれる。「もともとそうである」という意味。
輝きは、「本然の自分」、つまり「もともとそうである自分」から発せられる。
大好きな人と会うとき、つまりその人が好きだという「本然の自分」に忠実であるとき、自ずとその人は輝く。
「自ずと」、つまり、「自然」に輝くことが大事なのだ。そうでなければ、偽の輝きであり、そもそもほんとうには輝けない。
会いたくないのに、何かの代償として異性と会うならば、いくら明るくふるまっても輝いてはいないだろう。
この『本然の自分』が輝く瞬間を、高村光太郎の詩はさらに別の角度から捉えている。
4. 高村光太郎の『道程』と輝きの本質
ここで冒頭に掲げた言葉にもどろう。
「ほんとうに、かつてない未来を創るには、過去を捨てなければならない。
過去も未来も手放せば、今の自分は、自ずと輝く。
でも、今日、気づいたのは、
先に今を輝かせれば、過去も未来も手放しやすいのではないかということである。」
さきほど、紹介した詩人、高村光太郎に以下の詩がある。
彼の作品のうちで、もっとも有名なものである。
道程
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
今回のテーマに沿って、この詩を読み解こう。
僕が輝いていれば、
「僕の前に道はない」し、
「僕の後ろに道はできる」のである。
つまり「未来」も「過去」もない。
「過去」と「未来」を一言でいうとなんであろう。
「時間」である。
自分が輝いているときは、自分にとっての心理的な「時間」はない。
わかりやすく言えば、楽しかったり、夢中になったり、自己実現をしていれば、
「時間」なんて忘れてしまうことがあるだろう。
それである。
そのときにはその人は、輝いている。
高村の詩『道程』にある
自然という「父」による気魄が充たされる。
5. 輝くために「時間」をなくす
一方で、真に輝くためには、「時間」をなくさなければならない。
「心理的な時間」である。それをなくすとはどういうことであろう。
「なにかになろうとしない」ことである。
「なにかになろう」とするとき、「なにか」になるまでの「時間」が
生じる。それが前提である。
輝こうとしない。
生き生きしようとしない。
光になろうとしない。
自分の前に道をつくろうとしない、
そして、過去を悔やまない。
じゃあ、何をすればいいのか?
心地よくなっている自分を感じる
ただひたすら味わっている自分を感じる
楽しんでいる自分を感じる
メロメロになっている自分を感じる
意気揚々としている自分を感じる
そうすると、気分がよくなっていてただでさえ、
輝いているところに、それをあえて感じることによって
より光がますであろう。
明るくポジティブなときだけではない。
悲しんでいる自分を感じる
ひどく怒っている自分を感じる
苦しんでいる自分を感じる
痛がっている自分を感じる
そのとき、なんでこんなに悲しいんだとか、
どうしたらあいつを懲らしめてやれるだろうとか、
この苦しみをどうやったら脱出できるだろう
と思考をめぐらしてはだめである。
ただひたすら感じることに徹する。
すると、意外なことがわかるかもしれない。
著者は、苦しんでいるときに、鏡で自分の目を見ると
「いい目しているなあ」と感じることが多々ある。
つまり、輝いているのである。
われわれが、存在の根本から輝くためには、
悲しみや苦しみ…もときには必要になるのかもしれない。
つまり、
輝くためには、何かになろうとすること―時間はいらないし、むしろ阻んでしまうのである。
(END)
