①自分の存在を明かすという愛
自分という存在を明かすこと自体が、“愛”である。
自分という存在とは、身体のみではない。
心も意識も、そして、その先に在る目には見えない、広大な世界も含めて。
明かすとは告白といってもいい。
それまで隠していた気持ちを表面化する。
ないと思われていたものを在るようにする。
見えないものを見えるようにする。
自分の奥にある日頃は自分でも意識していない気持ちを表現することである。
こうして自分という存在を表すことは、
この地球上における愛に違いない。
土の中に埋められた種が、やがて芽となり、成長し、生きとし生けるあらゆるものに恩恵を施すことが愛であるのと同じように、人が自分という存在を明かすことは愛である。
なぜならば、
他の人からその存在を明かされたときに、その人もまた成長する。
自分という存在を知るようになる。
さらに、その人が自分を明かせば、愛は広がる。
②なぜ私たちは自分を告白するのか?
あなたはそれがどうしてだかわかるだろうか。
われわれは、われわれに秘められた謎を説かなければならないように仕組まれているからだ。
我々は徹底的に、孤独だ。一人だ。
なぜここにいるのか?
なぜ生まれてきたのか?
なぜ死ぬのか?
自分という存在はなんなのか?
自分は誰か?
・・・・
さっぱりわからずに宙に浮いているかのように
生きている。
それがわからなければ、浮いたまま
死んでいかなければならない。
だから多くの人は、誰かに自分という存在を明かされることを求めている。
そして、自分を知りたいと思っている。
さらには、自分も自分を告白したいと思っている。
自分を告白することは、自分への愛そのものだから。
多くの芸術は自分を告白することを目的としている。
絵画も音楽も、演劇も、美術も、詩も文学も・・・
自分を告白することは、簡単なことではない。
そして、限りあるものではない。
もしかしたらば、無限であるかもわからない。
私と言う存在の無限さ、複雑さ、微妙さ、もどかしさに肉薄していくのが、
自分という存在の告白であり、芸術である。
だから、技術もいるのだ。才能もいるのだ。努力もいるのだ。
でも、それは芸術家だけの仕事ではない。
世界人類80億人いるなら80億人全員の仕事であるべきだ。
ある芸術という特殊な技術や感性をもった者はその方法をとるが
それ以外は、それぞれの人のやり方で、自分という存在を明かす。
おしゃべりでもいい。
一人で叫んでもいい。
仕事として表してもいい。
誰かに尽してもいい。
それぞれの人のできる方法で、自分を告白して、その中にあるほんとうの自分を明かしていく。
それが理想であり、人間のやるべきこと。
多くの人はそんなことを知らずに、知っても無視して死んでいくが…
でも自分という存在を明かすことが愛であるからといって、それを他人に押し付けたら、いきなり暴力となってしまう。
まったく愛と反対の仕業になってしまう。
なぜならば、自分への気づきは、押し付けでは決して起こらないからだ。
もっとも、他人に押し付けるようなことは、自分という存在を告白できていないということである。
押し付けることは、外に意識が向かっている。
あくまでも自分の意識を内側に向けた発露が、
たとえ、表現という外側に向かっているように見えるものであっても、
自分という存在を明かすということである。
われわれすべての存在は愛である。
だから、それを告白し、明かしていくことは愛そのものになるのだ。
では、あなたはどのように自分という存在を明かしますか?
(※「本当の自分を明かすと、人生が変わる(後半))に続く

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