天変地異と妄想
天変地異は単なる自然現象であり、その自然現象を大きくしてしまうのも小さくしてしまうのも「人間の心次第」である。
よく言われる例であるが、
- ロープを見て、蛇と思ってしまう。
- 夜歩いていて、枝にひっかかっているコンビニのビニル袋を幽霊とおもってしまう。
- 駅のホームで目のあった人の顔が険しい表情をしていたので、自分のことを怒っているのかと思ってしまう。
- たまたま、血圧の数値が少し上がっただけなのに、心臓や脳の血管に異常が出ないかと心〇配になる。
- 咳と鼻水、熱があるだけで、危険なウイルスにかかっているのではないか。
- 本人だけではない。電車の中で咳をして鼻をかんでいる人を見て、その人は何かのウイルスにかかっているのではないか、自分もかかってしまうのではないかといても立ってもいられなくなる。
それらはすべて心の作用である。
心が事実を膨らませている。
あるがままをあるがままに見ないで、想像を膨らませてしまう。
プラス発想はプラスの方に思考を向けて、いいことを想像する。
その逆にマイナスの方に想像をふくらませて恐怖を感じてしまうことの方がだんぜん多い。
人間は、放ってくと、マイナスの方に思考を向けてしまい、巨大な妄想をつくりあげてしまう。

天変地異も同じである。
妄想を膨らませて、それによって、多くの人々がどれだけのストレスを受けているか。
国や自治体でも、不安のために必要な備え以上のことを行って、必要以上に費用もかかっているだろう。
一時災害二次災害という言葉があるが、災害が起きる前の災害であるから、ゼロ災害といえよう。
天変地異をあるがままに見る

でも、これはどれだけ人間の心の力がいかに大きいかということも示している。
南海トラフが30年以内に起きる確率が80パーセントという。
計算結果としてほんとうに出ているのであろうが、国はそれを公表することによって恐怖心を起こしてもいい、いや恐怖心を多少なりとも起こさせようという気持ちはあるのではないか。
なぜならば、恐怖心がある方が事前に備えるだろうと考えるから。
恐怖心を感じている方が、災害への備えをやらないよりは、ましであると考えている。
しかし恐怖心をあおることによるデメリットはあまり考えないのではないか。
たとえば、犯罪に遭うと、恐怖のあまり動けなくなるということはよくある。
犯罪ばかりではない。電車に乗っていて衝突など事故に遭うと、いったん空白になり、その後は恐怖感が巻き起こってくる。どうしたらいいかわからなくなり、パニックにもなる。
恐怖感に負ければ負けるほど、正常な意識を保てなくなる。つまり冷静になれない。
それは、危険回避という意味でも、たいへんなマイナスである。
一方で、プラス発想をして、ほんとうは準備をしたり、訓練をしたりする必要があるにもかかわらず、「だいじょうぶだろう」と楽観視して、「災害が起こる可能性がある」という現実をしっかりと見ない。そして備えをしない。
これはこれで危ない。
だから、事実を事実のまま見る。
恐怖感という色や楽観という色に染められず、あるがままに見ることはとても大切である。
一方で恐怖心を持つことによって、少なくとも災害への備えが進むという考えがある。
背中から恐怖というムチで叩かれることで、災害への準備が進み、心構えがつくられるという考えである。
しかし、心理学者ジョージ・ウェインバーグが
「あなたがなんらかの行動をおこしたとします。するとそのたびに自分のしたことの動機となった考えを強めているのです」(加藤諦三訳『自己想像の原則』三笠書房)
と書いているように、恐怖を動機にして、準備や訓練などの行動を行うと、恐怖心を強くしてしまう。

どうしたら、恐怖心を動機にせずに、災害に備えることができるだろうか。
それは、同じ「おそれ」でも「恐れ」ではなく「畏れ」を動機にすることである。
天変地異にまつわる“彼”の心の歴史
【現代科学以前の“彼”】臆病な彼は天変地異を恐(おそ)れた。
いつ地震がくるかいつもおびえていた。
科学によって汚染された彼の頭は、「畏(おそ)れ」という概念を取り払ってしまったからだ。
逆に科学によって恐怖を植え付けられた。科学はこの大自然のことを1%も知らない。
しかし、すべてを知っているかのようにふるまう。
知らないことを知っているかのようにして知らない、わからない、怖いという感情を押さえつけているからこそ、
恐怖の念が植え付けられ、その病巣はどんどん大きくなる。
【現代科学より前の“彼”】科学を知る前の彼には、畏敬の念があった。
天変地異に象徴される自然を通して神を見るという
畏れる心があった。
不思議なことに畏れがあると恐れはなくなった。
当然といえば当然で、畏れとは、自然はすべて神が起こしたものであると認識することであり、自然は神が作ったと知っているからである。だから畏れながらも安心感があった。
自然につつしむ心がうまれた。
儒教では、「うやまう」のも「つつしむ」のも「敬」という字をつかう。彼は、畏れたからこそ、敬(うやま)い、敬(つつ)しむ生活を送った。
天変地異とそれを起こす自然-神に畏敬の念をもった

ここでいう“彼”とは、日本という国であり、日本人という民族である。
古来、日本人は(他の民族もそうかもしれないが)、天変地異は神が起こしたものとして、畏れてきた。
現代人は、天変地異に対して、畏れることを忘れ、恐れて怖れてばかりいる。
天変地異を含む自然に対して畏敬の念を忘れて、恐怖ばかりしている。
天変地異はあることを忘れずに、天変地異と共存して生きて行くためには、「恐れ」よりも「畏れと敬い」すなわち「畏敬の念」を持つことが大切ではないか。
(END)
