火は自然現象だった
1月6日、寺の柵の向こうに、墓が立ち並び、その上に火が舞っているのが見えた。およそ30~50メートル先に見えた。ある寺で火を焚いていた。
お焚き上げ(注1)であろう。古くなったお塔婆等を燃やしているようであった。
火の中にお塔婆の黒い影があり、外側に、頭を丸めているお坊さんの姿があった。
あそこまで大きい焚火を見るのは久しぶり。 火は先端の部分が大きくなったり、揺らめいたり、小さくなったかと思うと、横に広がったり。予測不可能な動きをする生物のようだった。

恐ろしくなった。
こんなに離れていて、火の粉ですらかかる心配はないのに。 火も自然であることを忘れていた自分を思い出した。
普段見かける火は小さな火でしかない。
仏壇で線香を焚くためのロウソクの火。ロウソクに火をつけるためのライター。そして、ガスコンロや湯沸かし器の中で燃える青い炎。
どれも小さい火であるせいか、「人工」の中に、埋め込まれている。
寺で見た大きな火も、おそらくお焚き上げのために、元はマッチやライターによって発生した火に違いない。
人間が点けた火である。
しかし、火、つまり燃えることは自然現象である。 私は、それをお焚き上げの日常見ることができない大きめの火によって、「火という自然現象があったのだ」と思い出した。
天変地異という非日常
♪かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている♪
これは1941年(昭和16年)に生まれた『たきび』という童謡である。
ここにあるように、昭和の40年代50年代頃までは秋になると、地域のあちこちで焚火が見られた。
今は、めったに見ることがない。
冗談ではあるが、焚火は、火日常ではなく、非日常となった。
(日本語では、火日常という私の造語も、非日常もhi-nitijouと読む)

今年、あちこちで震災等天変地異があるかもしれないと言われている。
私たちは、日頃、雨や風、日光・・・見慣れた「自然」に囲まれて、仕事に行ったり、家事をしたり、近所付き合いをしたりと日常を過ごしている。
しかし、この現実に、私が見た「火」のように突如、姿を現す「自然」がある。
「天変地異」である。
自然であるにもかかわらず、不気味で生き物のようで、制御不能。わけがわからなくて、まるで日常を囲む自然とはかけ離れている…
実はこれが自然というもの本質であろう。
そうしたことも天変地異が発生したときは、考える暇もなく、振り返ってみたときは、すべて終わったときである。
何かを失い、何かを残し、そして、また日常に戻ってしまう。
立春にあたって、あらためて「天変地異」という人工の世界に立ち現れる「巨大な火」―「自然」を心の中で見つめる時間を持った方がいいかもしれない。
(注1)「お焚き上げ」とは、お守り・御札をはじめとする縁起物や、特別な思い入れのある品を神社・お寺の境内で燃やし、浄化・供養する日本古来の宗教儀式

END
