Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

日本語に「主語」がないのは「自我」がないから? (2/2)


(※日本語に「主語」がないのは「自我」がないから?(1/2)より続く)


戦後日本の経済発展を支えたのは、
「主語がない」ことによる?


とくに、戦後に日本が高度経済成長できたのは、「集団主義的文化」が大きく貢献したのは確かであろう。個人よりも組織全体の利益を優先する文化が、企業内での協調性を生み、爆発的成長を果たさせた。

 江戸時代にお家のため、藩のために、個人を捨てて尽したのと同じである。そのような日本人の特性が、戦後には企業のために尽すようになったということであろう。

「主語を極力使わない」言語を有しているからこそできたことではないか。なぜならば、「私が」「私が」と自己を主張してばかりでは、「集団主義」は成り立たないからだ。「私が」がないからこそ、全体の利益に殉ずることができる。

 「無私」とは「私が無い」と書く。昔、自分の所属する商店や家に奉仕することを「滅私奉公」といった。「滅私」つまり「私を滅する」「私を滅亡」させて尽すということである。「無私」よりも過激である。

 つまり、日本人は、昔から集団のために滅私奉公をしてきた。

 これは、「私」がない、もしくは「私」の使用度を極力少なくしている日本語を話す民族であるからできたのではある。しかし、その民族に近年は、無理矢理、「私」すなわち「自己主張」を導入してきた。

 それがゆえに、「集団主義」がくずれ日本企業は以前よりは弱くなった。戦前の「家制度」の「家」のみならず、戦後できた「核家族」でさえ崩壊しつつあると考える。

 そして、個人的には「孤独な人」が増えた。

 日本人に、無理矢理、「私」という言葉を使うように仕向けて、「私」という意識を持たせた結果、「孤独な人」をたくさん作ってしまったのだから、なんという皮肉だろう。

 あらためて、日本人が昔のようにもっと「主語」を使わないようになったら、淋しい人、孤独な人が少なくなり、自殺者も減るかもしれない。

 

主語の「私」を抜いて、行動する

 

自分がどう思うか。自分がどうなりたいか。

そこをできるだけ捨ててみる。

料理にたとえてみましょう。「私が晩ご飯をつくらなくてはいけない」というと、ストレスになりますね。そうではなくて、「私」を主語にしないのです。

 たとえば、これから「晩ご飯がつくります」と。ちょっとヘンな日本語に聞こえると思いますが。

 主語が「晩ご飯」ですね。「私」が主語ではない。そうなったら、あとは物事を組み合わせるだけでしょう。



 これは、日本で活動をしているスリランカ上座部仏教のスマナサーラ長老が書いた『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』(佼成出版社)の一文である。この本は、『現成公案』を糸口に『正法眼蔵』そして仏教を説いていて、とてもわかりやすい。難解な『正法眼蔵』を自分の身に置き換えて読むことができる。

 上に引用した文章は、「第7章 『自己』を入れない暮らしをする」にある。

 たとえば、何かを動かすときに、主語を自分ではなく、物にして、「この物が、どこに置かれたいか」「このコップはどこに置かれたいとおもっているだろうか」と、物の気持ちになって動かしてみる。つまり「私が」という自我を入れないと、思いのほか片付けがうまくいくという。

 体を動かすときにでも、動かすのは自分ではなく、「体が動かしている」と思ってみる。「自分の足がどう動きたいのか」と、足が動かしたいように動く。「自分=私」が主語ではなく、「足」が主語である。

 そうやって生きて行くと、ずいぶんと、日常の暮らしは楽になるという。

 私も「私が今、どう動きたいのか」ではなく、「体は今、どのように動きたいのか」と、主語を変えてみるだけで、気が楽になり、動きがスムースに移行できる気がする。

 以前、『心の時代』というテレビ番組だったと思うが、禅について語られているときに、「“すっと動く”ことがとても大切」であると言っていたのが、強く印象に残っている。

 これは、「体は何をしたいのか」と「体」に聞くこともなく、ただ単に思い浮かんだこと、流れにまかせて「すっとやる」ということであるが、「私がそれをしよう」と思うのではなくて「私」という主語が抜けているのには、変わりはない。

https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000mh3.htmlより

「私を抜く」と「私を知る」の
両方が大事

「日本語に『主語』がないのは『自我』がないから?(1/2)」の冒頭にあげた

「仏道をならうことは、自己をならうことだ。自己をならうことは、自己を忘れることだ。自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。」(訳文)

と『正法眼蔵』の“現成公案”にあるように、「仏道」のみならず、人生において、「自己をならう」つまり「自分を知る」、「私を知る」ことはもっとも大切なことであると私は思っている。そして、「私」を知っていく中で、究極には、その「私」すら忘れてしまう。

 それが人間としての成長の姿であり、理想であると思う。

 だから、「私を知ろう」と意識することはとても大切であり、また、「私を抜こう」「私という意識を抜いて行う」ことも必要であると思う。

 「私を抜く」ことを意識することは、「私とは何であるか」を知るために有効であろうし、また究極の目的の「私を忘れる」に直接アプローチすることであるからだ。

 また、「私を抜く」と「私を知る」は矛盾することのようであるが、成長のためには、矛盾する両方を実践して、それを超えていくという視点は大事だと思う。

 なぜならば、「私があって、ない」のが自分であるから。かみ砕くと、「自我」という意味では「私」があり、「大我=真我」という意味では「私」がない。自我=私を切り捨てたところに(忘れたところ)に「大我=真我」が現れる。でも、「自我」=「私」を通してしか、「大我=真我」は現れない。

 その意味で、他の言語よりも「主語」を使わない日本語を適切に使うことは、「私」=「自我」から抜けて、意識の成長をしていくために、とても役立つかもしれない。

 その意味で、和歌などの日本の古典文学を学ぶのはとてもいいと思う。

 それも、日本語を使う人や日本語学習者がその点を意識して使うか学ぶかに依るが。私も主語をあまり使わない日本語を適切に使う表現を追求していきたい。そうして自己成長につなげたい。 (END)