Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

日本語に「主語」がないのは「自我」がないから? (1/2)

私を忘れる

【原文】

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり、万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。

【訳文】

仏道をならうことは、自己をならうことだ。
自己をならうことは、自己を忘れることだ。
自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。
宇宙の真理に目覚めさせられることは、自分の身心(しんじん)と他人の身心を脱落させることである。
悟りの痕跡すらとどめずにおいて、その痕跡なき悟りを長く長く顕在化させるのである。

ひろさちや著『すらすら読める 正法眼蔵』講談社



 これは、曹洞宗の開祖、道元が書いた『正法眼蔵』の“現成公案”の、有名な一節である。この【訳文】にある「自己」をよりわかりやすくするために「私」という言葉に変えてみよう。

「仏道をならうことは、私をならうことだ。私をならうことは、私を忘れることだ。私を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。(後略)」

 つまり、仏道を学ぶことは、私(自分)を知ることであり、私(自分)をほんとうに知ることは私(自分)を忘れることだといっている。真理を悟るには、究極的に「私」を忘れることでしかできない。

 ここで話が変わる。

主語をあまり使わない言語


 私は、日本語で主語が省略されることが多いことについて、否定的に言われて教育を受けてきた。中学で英語を初めて学んだ数十年前から。否定の理由は、「日本語に主語がないから、日本人は国際社会で自己主張できない。」

 つまり、日本人が欧米人と対等に交流できないのは、自己主張がないからと言われ、自己主張がないのは、日本語に主語が省略されることが多いから、他の言語で話しても自己主張がなくなるというのだ。

 でも思う。恋人に愛を伝えるのも自己主張だと思うが、英語で
“I love you.”と言うのと同じように、「私はあなたを愛しています」とか、「俺は君を愛している」と表現して、伝わるだろうか。

 相手の目を見て「愛している」と言った方が一発で伝わるだろう。

 もし自分が女性から、「私はあなたを愛しています」と日本語で言われたら、心の中ではたとえ相手に好意をもっていたとしても、「この人は理屈っぽい人だな」とか「なんとなくAIっぽいな」なんて、思ってしまうかもしれない。そしてストレートに胸に響いてこないだろう。

 逆に、たとえ、目を見られていなくても、たとえば冬の湖を二人っきりで眺めているとき、しばらくの沈黙の後で、たったひとこと「愛してる」。
なんて言われたら、その言葉がからだ全体に染み渡り、歓喜そのものとなってしまうに違いない。

いまだそんなロマンチックな告白はされたことはないが(笑)


 「愛している」といって、相手に伝わるのは、言葉だけものではなくて「まこと(誠)」があるからである。言い換えると「まごころ」。それは「真実」であり、「真我」から発せられる何か-somethingである。

「真我」とは何か。「自我」ではないことであり、「私」がないということ。


「主語」がないのは「自我」がないということ。

 私は日本語研究の専門家でもなんでもないのであるから、直感による解釈に過ぎないのであるが、日本語に主語が省略されることが多いのは、「自我というものは本来ないものであって、幻想である」と日本語をつくった日本人は知っていたのではないか。


 ここでようやく「日本語に主語がない」、「主語が省略される」に戻るのであるが、「私がない」ことは「自我がない」または「自我にとらわれていない」ということである。「自我がない」のは「真我である」または「真我が現れやすい」ということ。

 そうして、このような言語になったのかもしれないし、または、そもそも自分という意識が現代よりも強くなかった昔の日本人が日本語を使っているうちに、おのずから変化していったのかもしれない。

ようやく最近、自分を主張できる日本人が増えてきた?

 アメリカとフランスで生活したことのある日本人女性が、英語では議論しやすいが、日本語を使うとなぜか大人しくなると言っていた。

英語はそもそも自己主張に適していて、日本語はそぐわないのだろう。

「私は・・・と思う」「私は・・・と主張する」のが、自己主張であり、自分の意見をいうということである。

主語をあまり使わない日本語が、自己主張に向いていないのは当然である。


 戦後、敗戦国である日本にアメリカの文化や習慣が入ってきた。一方で英語は中学から義務教育で習うようになったが、日本人の多くは英語を使えるようになっていない。

 ところが、最近の日本人は、まだ他国と比べていまだに少ないだろうが、以前よりは自己主張できる人が増えてきた。もちろん日本語で行っている。

日本人は英語を話せない人が多いのであるから、英語で日頃から自己主張をしているから、母国語を話すときでも、主張できるようになった人が増えたわけではない。

以前より、日本人は、欧米人と交流していて自己主張できない人間が多い、だから恥ずかしいと自己批判を繰り返してきた。その成果が少しは表れてきたかもしれない。

 今、日本のSNS上でも、さまざまな事柄において自己主張が飛び交っている。議論というかケンカしている人も多い。

自分の意見を主張して、他人を批判する。過度になったのが誹謗中傷だ。

匿名になるとさらに誹謗中傷はひどくなる。

他人の悪口を言うのも、自分の意見ではあるし、自己主張でもあろう。あまり悪口を言わない、他人を否定するのを躊躇するかつての奥床しい日本人はどこに消えてしまったのか。

 自己主張はとても大切である。しかし、自己主張しないこと、そして、自己主張を忘れる、つまりは自己そのものを忘れることも大切であるという視点を失っていないか。

 せっかく自己主張が構造にはっきりと組み込まれていないであろう日本語という言語を持っているのだから、その特性を生かしつつ、いざというときには自己主張できる人間を育てるという教育の基本方針を立てるべきなのに、無暗に母国語からくる日本人の特性を否定するという方向に走っている。

(※日本語に「主語」がないのは「自我」がないから?(2/2)へ続く)