スタバに入ったら、いつもと雰囲気がちがう。
店員が赤いユニフォームを来ている。
客たちのテーブルに置かれた紙カップも赤色を基調としたデザイン。
BGMに”White Christmas”が流れてきた。
♪I’m dreaming of a white Chrismas.♪
一抹のさびしさがよぎる。
「早いな…」とつぶやきながら、席を確保した。
「もう11月だ。ふつうか…」と、こみ上げてきた感情を断ち切るかのようにバッグを席に置き、カウンターに並ぶ。
さびしさの背景には、一人のクリスマスがまたやってきたという思いがある。
一昨年家族と別れてから、今年は3度目である。
1度目2度目ともに、意地になって、一人クリスマスをした。
といっても、ケーキとチキンを買ってきただけである。
1度目より2度目の方がケーキは小さくなり、2度目のチキンは焼き鳥になった。
だから酒もワインからビールになった。
今年は“ない”かもしれない。
90年代以後、クリスマスの街を歩くと必ずあたる。
♪きっと君は来ない。ひとりきりのクリスマスイブ♪
山下達郎の名曲だ。
この曲の主人公は、「来ないかもしれないけれど、“君”が来る可能性は残っている」。
しかし、自分のところには、家族は初めから来ないことはわかっている。
人並みにさびしがっている自分がいる…。
自分をそう客観視する自分もいる。
家族やパートナーとクリスマスを祝い、幸せ感に包まれている人が大勢いる一方で、
クリスマスだからこそ、さびしさのどん底に落ちている人も数えきれないくらいいる。
この世の中を、イエスは天国からどう見ているのだろうか。
一人 + さびしい = 孤独
さびしがっている自分を客観視しているもう1人の自分がいると書いた。
以前の自分だったら、さびしさを湖のように広げて、浸かっていたろうが、今は違う。
心に湧いてきたら、放っておけば消えることを知っているからだ。
一人でいるからといって、孤独であるとは限らない。
つまり、一人と孤独は等しくはない。
一人がさびしいと感じ、そこに浸っていると孤独になる。
さびしくなければ、またはさびしく感じても、それにとらわれなければ、ただの「一人」だ。
「一人」は、さびしいという感情を抜きにすれば、
数を超越し、自我を超越し、すべてと一体である。
その「一人」の状態を表して「ひとり」であると私はそう考える。
そうなると、もうさびしいも何もない。
もう初めから、自分と他人、そして他人と他人も
すべて一つなのであるから。
その意味で、大和言葉というのはすごいと思う。
「一人」と漢字で書くと限定された感覚になるが、
「ひとり」と大和言葉=和語で書くと、感覚に広がりがでてくる。直感でとらえやすくなる。
人がただそう感じられるだけではなくて、
そのような含みを
最初から持たせているのが、日本語ではないか。大和言葉ではないか。
別の角度からみると、
「ひとり」という音声に、「一人」という意味と
「ワンネス」が含まれている。
と私は少なくとも考えているし、感じている。
ワンネスは元々、英語であるが、onenessと書く。
辞書で調べて見ると、
“‐ness”は、
「(複合)形容詞・分詞などにつけて「性質」「状態」などを表わす抽象名詞を造る」である。
だから、oneness は、one「1 つ」-ness「こと」であり、「1 つであること」。
一体感、唯一性、単一性,統一(性),同一性,不変性 .
それと、(思想・感情・目的などの)一致,調和
等の意味がある。
人間は、個々の一人であるが、全体の1つでもあるのだ。
一人で居てもさびしくない人間になれ
「一人で居ても淋しくない人間になれ」
頭山満(1855-1944)の言葉である。
彼は男女を問わず、
周囲の人たちに繰り返し教えた。
頭山満を知らない人も多いだろう。
Wikipediaによると、
号は立雲。1878年に板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、朝鮮で日本人団体天佑侠、国内で黒龍会を設立し、反ロシア的な日本人の哥老会運動にも参加した。玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動の支援や韓国併合などを推進した」
こう紹介されているように、
知っている人から見れば、在野の政治団体の首領として勇ましく、生涯を戦い抜いた人というイメージが強い。だから、
「一人で居ても淋しくない人間になれ」という彼の言葉を
よく孟子の
「自ら反みて縮くんば、一千万人といえども吾れ往かん」
(自分の行いが確かに正しいという信念ができた時には、たとえ相手が千万人あっても、自分が敢然として進んでこれに当たろう。 師橋轍次著『中国古典名言辞典』)
と同様に考える人もいる。
それは、彼の一面のみを見ている。
中国、明の時代に書かれた古典『呻吟語』には、こうある。
深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄なるは、これ第二等の資質。
聡明才弁なるは、これ第三等の資質。
【訳文】
どっしりと落ち着いて深みのある人物、これが第一等の資質。積極的で細事にこだわらない人物、これが第二等の資質。
頭が切れて弁の立つ人物、これは第三等の資質。
「磊落豪雄」はつまりは、「豪放磊落」であって、
頭山満はそう思われがちであるが、
彼はまさに「深沈厚重」の人であった。
実は、内省的な、思慮深い人であったから、
自らが若い時から「一人で居ても淋しくない人間」になろうと
努力してきた。
その過程で、彼は、禅でいうところの「悟り」を得た。
スピリチュアル的にいう「覚醒した」と私は考えている。
つまり、「一人」は「ひとり」であることに気づいたのだ。
そこまで心を研ぎ澄ましたのである。
ほんとうに「一人で居ても淋しくない人間」になれば、
「大勢と居ても淋しくない人間」になる。
なぜならば、すべては一つでつながっていることから、
それを感じて生きていればさびしくなりようがない。
「怒り」、「恐れ」、「悲しみ」は、私がもともと持っているものではない。
人生において、
さびしさ、不安、心配、恐れ、怒りは、つきものであろう。
しかし、それらは、簡単に手放すことができ、
かつ手放すと、その場ですぐに幸せになれる。
なぜならば、それらは「もともと、もっているもの」ではないから。
自分の本質ではない。自分がつくっているものである。
だから、手放すことはできるのである。
簡単にいえば、さびしい、不安、怖い・・・
ときたときに、それを流してしまえばいいのである。
そういう感情が湧いてくるのは、自然なことである。
たとえば、前述したように、クリスマスに飾られたスタバに入ると
さびしさが出てきたように。
そうしたら、さびしさが湧いてきたなあと感じているだけで、
(それが客観視すること)
自然に消えていく。
または、思考によってそれらの感情が出てくる。
たとえば「将来どうなるだろう」と考えると、「不安な感情」がこみ上げてくる。
同様に、その感情を感じて、後は「将来どうなるか」という
「不安な感情」の元になった思考を考えなければいい。
「将来どうなるか」と考えれば考えるほど、感情は強くなり膨らんでいく。
感情の元になった思考を考えず、感情をただ感じているだけであれば、
感情は消えていく。
長くても数分間で消える。
それが消えないのは、その感情を引き起こした思考をいまだ考えているからだ。
そこに留まるから、さびしくなるし、不安になる。怒りがおさまらない。
昭和の哲学者であり、心身統一道の創始者、中村天風。
彼は頭山満の弟子でもあったのだが、
「怒らず、恐れず、悲しまず」
と人々に教えた。
「怒らず」には、人をうらんだり、憎んだりしないことが入っている。
「恐れず」には、不安や心配しないことも入っている。
「悲しまず」には、さびしくならないことも入っている。
これは、まったく怒らない、恐れない、悲しまないということではなく、
それらの感情が出てきたら、自然に感じたことなので感じてもいいが、
そこにとらわれるな、そこにとどまるなということなのである。
「怒り」、「恐れ」、「悲しみ」が出てきたら、
そこにとらわれないための方法は、先ほどから記述している
感情にひたるという方法以外にいくつもあるが、
おいおいお伝えしたい。
ここでは、最後に一つだけ、お伝えする。
「怒り」、「恐れ」、「悲しみ」が出てきたら、
「これは私がもともと持っているものではない」
と言うのだ。
心の中で言ってもいい。
それで自分の本質にはっと気づき、手放すことに役立つであろう。
