Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

日本語の婉曲表現が日本人をワンネスへと導いた



婉曲というマシュマロをまとった日本人


 最近、外国人と翻訳アプリを使ってコミュニケーションをとる機会が多い。

英語もほとんどできず、在日外国人との交流初心者である私は、日本語を翻訳ソフトに打ち込んで、英語にする。

そして、オンラインではコピーしてラインのチャットに貼ったり、対話の場合は翻訳した英語を直接相手に見せて伝える。

音声で音声に翻訳するアプリもインストールしているが、周囲の雑音を読み込み、私の言葉が聞き取れないことが多いので、自然と文字でのコミュニケーションが多くなる。


 しかし、翻訳アプリを使用していると、微妙なニュアンスが伝わっているか心配になる。

 例えば、私が使っているアプリに

「私は行きたくないんだよね」と入れると、

翻訳された英語は

“I don’t want to go.”

となる。

一方で、

「私は行きたくない」と入れても

“I don’t want to go.”

と全く同じ英語が翻訳されてくる。

「『だよね』は『無視だよね』」と、聞いている人もいないのにダジャレをつい口ずさんでしまう。

私はアプリにあきれているのである。

あきれる私がおかしいのかもしれないが、微妙なニュアンスを含めて、「この言葉を使う」と選択しているのに、それを完全排除されてしまうのは困る。


 例えば、ラインでの仲間からの誘いに、「私は行きたくない」なんて入れたら、「おまえ、何怒っているんだよ」と余計な詮索をされてしまうかもしれない。

「そんなに強く言わなくていいだろ!」とケンカになってしまうかもしれない。

「私は行きたくないんだよね」

と「んだよね」を入れることで、婉曲な表現となり、相手へ伝わる印象もやわらかになる。相手にダメージを与えずに断ることができる。

 私は専門外であり、他の人には周知のことを知らないだけかもしれないが、翻訳アプリの性能が悪いのではなくて、「私は行きたくないんだよね」における日本語の「~だよね」が表す微妙なニュアンスを伝える言葉は英語にはないのかもしれない。

(この「だよね」は、「『だよねは無視だよね』の『だよね』とは違う。つまり英語で “I know”等と表す同意の「だよね」とは異なるようだ。)


 これはもしかして、「日本語の真髄じゃないか!」いや、「日本人の真髄じゃないか!」。

といかにも全世界で自分が初めて発見したかのように書いたが、恥ずかしくなった。

私が気づいた意味はこうである。

 
「~ないんだよね」というような婉曲を表す言葉によって、日本人は、自分の身体をクッションで覆っているようなものである。

 『ゴーストバスターズ』のゴーストの1人、マシュマロンのように婉曲というマシュマロを日本語によって、日本人は纏っているがゆえに、コミュニケーションにおいて他人と接触しても相手にダメージを与えず、自分も受けないですんでいるのではないか。

 争いはたくさん起きているのではあるが、これがあるがゆえ、かなり抑えられていることは充分考えられる。


日本人は、堂々と「婉曲」な表現を使いましょう!


 Googleの検索に、「日本語 婉曲表現 論文」と入れてクリックしてみたら、たくさんの論文が検索された。


 そのうち上位5件について本文は読んでいないが、タイトルだけ並べてみる。


「現代日本語における表現の『やわらげ』」

「外国人留学生における日本語婉曲表現の理解」

「コミュニケーションにおける日本語婉曲表現について」

「日本語学習者の『カモシレナイ』の使用実態につい て : 婉曲表現としての『カモシレナイ』を中心に」

「自然会話における『かもしれない』『かも』の機能について」


 上記のタイトルに「かもしれない」がいくつかあるが、本人が「行きたい」のに「行きたいかもしれない」などと自分と他人にはっきりしない態度をとることがある。
 昨今では批判されることも多いが、「婉曲」という意味では、そのはっきりしない態度は日本文化に根付いた姿であり、歓迎されることかもしれない。

 
 多くは「自分のことなのに、行きたいか行きたくないのかわからないのか」とよくない態度とされるが、あながちそれだけではない。だからそういう自分を責めることはむしろおかしいということにさえなる。


 当然だろうが、日本語の「婉曲」については、この論文はほんの一部であろうし、すでに多くの研究がなされているだろう。

  想像するに、昨今、日本で学んだり仕事を生活をする外国人が増えているが、日本語の敬語が難しいと同様、婉曲表現にも手をこまねいている人が急増しているのではないか。

検索した論文の執筆者に外国人が散見されるが、ただ困っているだけではなく、使いこなすために自ら積極的に関わっていこうという意志が現われてきたことを示しているかもしれない。


 
 日本人こそ日本語の「婉曲表現」こそ見直して、積極的に工夫した方がいいだろう。
 

 なぜならば、SNSやライン等のチャット、メールにおいて、直接的な表現は、本人を目の前にして話すより、
ストレートに相手の心に届いてしまうからだ。

 
 だからこそ、ライン等には絵文字やスタンプが使われるのだろうが、「婉曲」の効果について、意識して使うとまた違うのだ。

 
 ここまで書いて気づいたのだが、自分がもっと奥のところで何を思っているかというと、日本語の婉曲的な表現について、あまりにも、自分も含めてみんな卑下しすぎてきたのではないかということ。

 

 今の社会では、はっきりと自己主張するのがよくて、はっきりしないのがよくないことばかりが強調されるが、それは時と場合による。

 はっきりしないことがクッションになって対立を遠ざけている面も大きいのだ。

 対立するべきところは対立するがよかろう。

 しかし、日常、多くの個性が共存するには、「婉曲」によって仲良くやることは大切だ。


 「言い切り」と「婉曲」と両方を使い分けてこそ、社会での達人といえる。

 

この吉本芸人が面白いのは婉曲と反対の表現をするから



 


 なぜか「婉曲」で思い浮かべたのが、吉本のお笑い芸人の山田花子である。結婚していろいろ噂があったが、まだ吉本の芸人を続けているらしい。

 彼女が出演した新喜劇のワンシーンのみ、YouTubeでみた。

 

 山田花子が食堂の中に入っていく。

誰もいないが、電話のベルがなる。配達の注文である。

部外者の彼女が電話に出る。

その電話に店はやっていないと出鱈目をいい、

この店の店長の悪口をさんざんばら言う。

 そこへ、店長が入って来る。

「(電話口で)俺のことスケベと言ったろう」

「スケベなんて言うてないですよ」と花子。

「スケベと言うたやないか、電話で」

すると花子は、「どスケベと言うたんです」

で会場の大爆笑を誘う。

 
 そう。彼女の笑いは「露骨」なのである。

 「露骨」の反対語(対義語)は「婉曲」である。

「注文は?」と店の主人

「ダーリンがまだ来ていないんで」と花子。

「相変わらずラブラブやな」

「そうなんです。昨日の晩も・・・」と

花子はダーリンとの夜のラブラブぶりをジェスチャーしながら「露骨」に表現する。

こうして新喜劇の観客の笑いを誘う。

 これはずっと以前よりの彼女の持ちネタである。

 なぜ「露骨」が笑えるのだろう。それは、日本人が「婉曲」表現を常としているからこそ、あの体の小さな子供のような女芸人が「露骨」に表現するだけで、そのギャップに笑いが起こるのであろう。


 婉曲とその反対語の露骨、それぞれの意味を『岩波国語辞典』で調べてみた。

【婉曲】

表し方が、遠まわしなこと。露骨にならないように言うこと。「―に断る」

【露骨】

気持・意図などを、相手のおもわくを気にせず、そのまま外に表すこと。また、人間の欲望や醜さを、あるがままに表していること。むきだし。あらわ。「―に非難する」「―な描写」

 
 それぞれの意味を眺めるにつけ、私の主観かもしれないが、「婉曲」の意味の方がいいイメージにとらえられ、「露骨」の方が悪いイメージに書かれているように思える。そもそも「婉曲」の意味が「露骨にならないように言うこと」となっていて、露骨を否定している。

 

婉曲表現の接着性は日本のワンネスを形成しているのではないか

 
 日本語の婉曲とは、自分と他人との間のクッションをつくるだけではなく、接着剤の役割をしていると思う。

接着剤とは、アロンアルファのような瞬間にして強力に両者をくっつけてしまうようなものではなくて、ポストイットの糊のように、くっつけたり、はずしたりできるようなものである。


 ポストイットは、接着剤の開発中に失敗し偶然出来た「よく付くけれど、簡単にはがれる糊」を利用して開発されたまさに世界的発明である。


 突然スピリチュアルなことを述べるが、我々は深い部分では皆つながっている。つながっているどころか一つである。それをワンネスという。

 一つであるのは、もちろん日本人だけではなく、世界中がそうである。人間ばかりではない。植物も動物もすべてが深い部分では一体となっている。

 

 その状態を言葉によって表しているのが日本語である。

 日本人の「和をもって貴し」という生き方に、日本語の「婉曲表現」は影響を与えているのではないか。


 この世、つまり見える世界、一般に現実といわれている世界は、見えない世界が映し出されている。

 このワンネスの見えない世界を、一般世界に映し出すために、日本語の接着性はとてもいいツールなのだ。

 
 個人と個人の間を、婉曲表現によって、くっつける。ただし、あまりにも一体化しているようなら、ポストイットのように離れることさえできる。

 目の前に展開することはすべて幻想なのであるから。