ウソだらけ
日本の政治、経済界、一般社会は元より、
アメリカ大統領選挙に注目していると
アメリカでもウソ(嘘)がはびこっているのがよくわかる。
ウソは中枢から、
社会や個人の人生を腐らせていく。
スーパーで買ったキャベツを冷蔵庫に放置していたら
葉はなんでもないのに、芯(しん)から腐った。
社会や人生において
キャベツの芯が腐るのに当たるのが、
ウソである。
葉の表面腐っただけなら、その部分を取り除けばよいが、
芯から腐ると、全体に広がる。
ウソのすべてが悪いわけではないとは思う。
人との付き合いにおいて、角が立たないよう
ウソをつくこともある。
昔の仲間たちとの集まりがある。
しかし参加したくない。
そのときに、「その日はあいにく仕事が入っていて」
と仕事が入っていなくても、
そう言って断る。
それを言われた相手の方でも、
「こいつは、仕事なんか入っていないな。
ただ来たくないんだな」
と察しても、
「ああ、その日も仕事なんだね。たいへんだね~」
と思っていることとは反対のことを言って
快く返事をしたふりをする。
もっともいけないウソ
しかし、ウソの中でも飛び切りよくないウソは
「自分にウソをつく」ことである。
他人にウソをつくのも、基本はよくないが、
「自分にウソをつく」のは、ずっとよくない。
ウソの中でも、中枢にあるウソであるからである。
キャベツの芯が腐ると全体に及ぶように、
他人にも簡単にウソをつくようになる。
「自分にウソをつく」とは、どういうことであろう。
先程の、「昔の仲間との集まり」を例に考えてみる。
以下の5つの例のうち、どれが「自分にウソをつく」であるかわかりますか。
1.「行きたくない」と思ったので、「その日はあいにく仕事が入っていて」と相手にウソをついて「集まり」に行かなかった。
2.「行きたくない」と思ったが、「行きたくない」ことを認識しつつ、いやいや「集まり」に参加した。
3.「行きたくない」と思ったが、「行きたくない」ことを認識しつつ、気持ちを切り替えてできるだけ楽しんで「集まり」に参加した。
4.「行きたくない」と思ったが、「行きたくない」という思いを見ずに、参加すべきだからと、参加した。
5.「行きたくない」と思ったが、自分は「行きたくない」はずはないと思いを否定して、「ほんとうは行きたいのだ」と自分に思い込ませて参加した。
この中で「他人にウソをついた」のは1.である。
2.はウソをついていないが、招待した側とすれば、浮かぬ顔でいやいや参加されていては迷惑と思うかもしれない。
3.は大人の対応といえる。自分の「行きたくない」を認めて行っているのであるから、自分へのウソにはならない
それでは「自分にウソをついた」のは、どれであろう。
4と5である。
4.は、自分の中の「行きたくない」を見ないで、つまり見て見ぬふりをして、参加するのが当然と参加してしまう。
自分の「行きたくない」を「ない」ものとして、葬り去ってしまう。「ある」ものを「ない」とするのだから、自分に対して「ウソをついている」ことになる。
5.は、まさに「自分にウソをついている」例である。ほんとうは「行きたくない」のに、自分に「行きたい」と思わせているのであるから。
自分にウソをつかないと天に使われる
幕末の儒者、佐藤一斎が晩年に書いた『言志耋録』には、
自ら欺かず之れを天に事(つか)うと謂う【訳文】
自分で自分をあざむかない。これを天に事うるというのだ。
(佐藤一斎著/川上正光全訳注『言志四録(四)』講談社学術文庫より)
「自分で自分をあざむかない」とは「自分にウソをつかない」ことである。
「天に事うる=使える」ことは、「天から使われる」ことと表裏一体である。
つまり、「自分にウソ」をつかなければ、天から使われ、
「自分にウソ」をつけば、自分の芯から腐っていく。
天から使われれば、自分の満足いく人生となるであろう。
なぜならば天とは「ほんとうの自分」なのであるから。
天から使わる、もしくは天に使えるのは、深い自分の望み通りの生き方なのだ。
そして自分が芯から腐れば、当然のごとくその人生はボロボロとなる。
天国と地獄は紙一重とはこのことである。
人生は自分にウソをつくか、つかないかにかかっている。
