(この文章は、中高年のみならず、若い人にも読んで欲しい。その理由は後でわかる)
自分の人生はなんだったろう…
「ミドルエイジクライシス」という言葉を知った。
AIによると、
「ミドルエイジクライシス(中年の危機)とは、40代から50代にかけて多くの人が経験する心理的危機です。自分の人生を振り返り、達成感や満足感に疑問を感じたり、精神的に不安定な状態に陥ったりするリスクが高まります。」
出世をしていたり金があれば、つまり世にいう成功者であれば、世間への面目も立つし、生活も裕福であるから、当然、そういう自分を受け入れるのは難しいことではない。
もっと大きな成功ができたはずという後悔やこの先にまた新たな欲が出てくることはあったとしても、受け入れる受け入れないという考えも浮かばず、大方は「自分はよくやった。よくここまで成功した」よかったと満足しているはずだ。
一方で出世もしていない、金もない、大した成果を上げていない、人望もない、家族も離れてしまった、異性にもてない、見た目もさえない、してきた努力も中途半端、…であれば、そういう自分は受け入れがたいのは当然であろう。
状況はその人によって違えども、中高年となって「自分の人生はなんだったろう…」と思っている人はたくさんいるらしい。
受け入れ難き自分を受け入れる
しかし、ここでいかに難しかろうとも、「受け入れがたき自分」を受け入れることができたら大逆転が起こる。
こんな「成功もしていない、何もかも中途半端な自分」を受け入れることができたという自信が魂の奥底からムクムクと湧いてくる。
自分の意に背いた状況であればあるほど、効果は大きい。
それは自分が一番受け入れ難い自分を受け入れるという「大事業」を行ったことであり、それだけ「大きな心の器」になったということなのだ。
少なくとも社会的に成功したことに驕り、立場を守るために戦々恐々としている人と比べると、心の上では大きさ広さ深さにおいて、天と地の差がある。
よく他人と比較するなという。確かに、人はそれぞれ異なるのだから比較することは意味がない。だから、初めから意識して他人の事績等を見ないようにして比べないようにするのも真理に沿っている。
一方で、他人と比較して、社会的にどう見ても他人より自分が劣っていると思えて、そこから劣等感に陥っても、その自分を受け入れるという道もある。
「社会的に他人と自分を比べると負けているが、私は私であり、これでいいのだ」と。そのときは、意識しなくても、人と自分を比較しなくなっている。
「心の成長」を最優先するのは「日本人の王道」
この「自分がどうしようもないと思っている自分を受け入れることで、心の器を大きくする」ことは、日本人の生き方において、実は「王道」である。
古来、日本人の存在のベースにあった神道においても、仏教においても、儒教においても、それぞれ表現は異なっても、「心」を最も大切なこととしていない教えはあるであろうか。
むしろ立身出世を目的とした思想はあったとしても「覇道」であり、神仏儒の中にはほぼないであろう。現実的な成功は、それらの中では二義的なことである。
恐れずに人生を歩んでいく
この「自分を受け入れる」ことの価値は、人生の終わりにある人や終盤に入ろうとしている人だけでなく、その他の人たち、とくに若い人たちにも知って欲しい。
野球はわかりやすい例であるが、野球人口中でプロに入れる人はわずかで、さらに大リーグに行ける人はもっと少ない。さらにそこで活躍するのはほんのわずか。大谷レベルになるとたった一人しかいない。
他の世界でもそうである。ピラミッド構造になっていて、上に行けば行くほど少ない。つまり成功者より成功しなかった人の方が多い。
たとえその事業なり仕事なりに失敗したとしても、失敗した自分を受け入れれば、より心が成長できる。これは成功を目指してきた分野を諦める結果に終わっても、より充実したその後の人生を送り、最後の最後となり死を受け入れることにつながる。
大きくつまずけば、つまずくほどその可能性は広がる。なぜならば、心が大きく成長するからだ。
だから何かをやりたいことがあれば、恐れずに挑戦してほしい。またやりたいことがなくても堂々と自分の人生を歩いて行って欲しい。
人生に失敗はない。失敗したか否かを決めるのは自分次第である。
