東京でも久しぶりの雨が降ってきた。
いつもは鬱陶しく感じることが多いが、今日は潤いが身体に溶け込んでくるような感じを覚えた・・・。
今日のように天候や自分を取り巻く環境を、いつでも、素直に味わえたらどんなにいいだろう。
人生の大半の苦しみはなくなって、喜び多き人生になるのではないか。
ところで、今回書きたいのは、
「誰もが大きくなれる」ということ。
心のことだ。
むろん、身体は、育ち盛りでもなければ、それ以上成長することはありえない。
むしろ次第に縮んでいくだろう。
一方で、心はいくらでも大きくすることができる。
それには、環境を生かすことが大切だと思う。
「人生の逆境」を乗り越えると、一回りも二回りも人間が大きくなれるのは、困難という自分を取り巻く環境を活かせたからだ
『中庸』にある「素する」が心の成長のカギ
孔子の教えが書かれた『中庸』には、「素(そ)する」という言葉がある。
君子はその位に素して行ない、
その外を願わず。
富貴に素しては富貴に行ない、
貧賤に素しては貧賤に行ない、
夷狄(いてき)に素しては夷狄に行い、
患難に素しては患難に行う。
君子入るとして自得せざるなし。
宇野哲人全訳注『中庸』講談社学術文庫より
以下は、訳文というより、かなり長い訳、すなわち解釈になっている。宇野哲人全訳注の本はそうなっている。
この「通解」の文章は、とてもハートに響く。
【通解】
君子はその位置境遇を自分の本来の持ち前と心得て、
その位置境遇に適当な行為をなして、その外を願う心がない。
もし順境に在って家富み位貴き時には、敢て驕りたかぶることなく、放縦に流るることもなく、富貴なるものの、行うべき道を行い、
もし逆境に在って家貧しく位賤しき時には、敢て諂(へつら)うことなく卑屈に陥らず、貧賤なる者の努力すべき道をつとめ、
夷狄に在ってはその風俗に随うとも、道を守って改めず、
患難に臨んでは恐れず憂えず、節を守って変ぜざるがごとき、
それぞれの位置境遇に適当な行為をなすが故に、
君子はいかなる境遇に入るも少しも不平不満の念を起すことなく悠々自適するものである。
宇野哲人全訳注『中庸』講談社学術文庫より
(「夷狄」とは、①未開の民。野蛮人。えびす。②外国人。
である。
「夷狄(いてき)に素しては夷狄に行い」は、現代で言えば、外国で暮らしても、その風俗に随いつつ、道を守って改めないと意味をとらえることができるであろう。)
【通解】の最後の言葉、「君子はいかなる境遇に入るも少しも不平不満の念を起すことなく悠々自適するものである。」
が実にいい。
「不平不満」を起こさないとは、つまり「感謝の念」で暮らすことであろう。また。「悠々自適」(のんびりと心静かに、思うまま過ごすこと。▽「悠悠」はゆったりと落ち着いたさま。「自適」は自分の思うままに楽しむこと)、すなわち、どんな境遇でもそれを楽しんでしまう。
じゃあ、どうしたらどんな境遇=環境でも、「不平不満」を持たず、「悠々自適」に暮していけるのか。2つのポイントがある。
1. どんな困難があっても、自分の成長の機会ととらえる。とくに心が成長するチャンスと思えば、ありとあらゆる事象に当てはめることができる
2. あえて、その境遇を自分から楽しもうとする。受け身ではなく、楽しもうという前向きな意識をもつよう心掛ける。
もちろん貧乏は大変である。節約しなければならないし、他の人と比較してしまう、ちょっと油断すると絶望の淵に落っこちる。など、乗り越えていかなければならない課題は次から次へと自らに突きつけられる。
一方で、大金持ちは大金持ちなりの苦労があるらしい。生活レベルを落とさないためにさらに稼がなくてはならないというプレッシャー、財産の管理、自分の資産を狙う人との葛藤、孤独…、お金持ちになった人にしかわからない苦労があるだろう。
それらの苦しみ、つらさを自分を大きくするためのツールととらえ、むしろ楽しんでしまう。不平不満など言っている暇はない。
その環境でなければ、味わえない喜びがかならずある。それを堪能しよう。
ちょっと気づいたのであるが、一番、身近な環境、切っても切り離せない境遇というものは、「自分」であろう。肉体と切っても切り離せない「自分」という「個性」には、欠点もあり、長所もあり、その「個性」があるがゆえに、体験してきたいろいろな事象があろう。
まさに、その「自分」という環境を楽しみ、成長のための大切な機会であり道具ととらえられれば、客観的に自己を見つめ、より豊かで充実した人生を送るために役立つであろう。。
