Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

死を見つめて自分を活きる




 迷わず死を選ぶ覚悟



武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。

二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなりけり。

別に仔細なし。

胸すわって進むなり。

図に当たらぬは、犬死などといふ事は、

上方風の打ち上がりたる武道なるべし。

(中略)

もし図にはづれて生きたらば腰抜けなり。この堺危きなり。

図にはずれて死にたらば、犬死気違いなり。

恥にはならず。これが武道に丈夫なり。

(後略)

【訳文】

武士道の根本は、死ぬことにつきると会得した。

死ぬか生きるか、二つに一つという場合に、

死を選ぶというだけのことである。

別段、むずかしいことではない。腹をすえて進むまでである。

「目的をとげずに死ぬのは犬死だ」などというのは、

上方風の思い上がった武士道である。

(中略)

見通しがはずれ、しかも生きていたときには、あれは腰抜けだといわれても

仕方あるまい。

ここが危ない瀬戸際である。

これに反して、死をえらんでさえいれば、

たとえ見通しを誤って犬死だ、気違いだといわれようとも少しも恥にならない。

これが武士道を心得た者のとる道である。

(後略)

(山本常朝/田代陣基原著 神子侃訳『葉隠』徳間書店)

   
 佐賀鍋島藩士・山本常朝(1659-1719)の談話を同藩の後輩・田代陣基(1678-1748)が筆録した『葉隠』。
そこにある有名な一節、


「武士道とは死ぬことと見つけたり」


とは、日々、一瞬一瞬、死を覚悟しろ。


生か死かの瀬戸際を想定して、


迷わず死を選択するような覚悟を常に持っておけということだろう。


その際、犬死を恐れてはならない。


目的を達せずに、無駄死にをしても、

それは恥辱ではない。


むしろ、死か生かを選ぶ場面において、死を選ばなかった場合、

とても恥ずかしいことであるという。

 
人間は目的を達するためだけに生かされているわけではない。



まずは


俺が俺であるために、俺が俺になるために、


私が私であるために、私が私になるために、


生きているのではないか。


それを脅かすような局面にぶつかったとして、


命をかけて、

俺が俺であることができるか?

私が私であることができるか?

自分らしくいられるか?


が問われる。



武士が武士であるとは、

生か死かの場面で迷わず死を選択することだった。


それが武士らしく生きることだった。

  戦時中、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の言葉を

都合のいいように利用して、

若者たちを特攻させるなどして、

死においやったと言われる。


そうだとしたら、

そこには、それぞれの人間の個性を輝かせるも

何もない。


武士でもない人間にとってつけたように

武士の倫理を押し付けて、

戦時体制のシステムに組み込ませただけだ。


 この言葉は戦争などの大事が起きた時というよりも、

日々死を見つめて、自分に問いかけるからこそ

意味のあるものであろう。


 そうであるからこそ、一人一人の生が輝く。

逆説的であるが、

「死ぬことと見つけたり」といいながらも

生命を殺すためにある思想ではなく、

活かすためにあるのだ。

 

死があってこそ生は輝く



 当今の自殺との違いも、

そこにある。

追い詰められて、

自分らしさという貴重な宝を巻き込んで自分の肉体をころすのが

多くの自殺であり、

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の死とは、

反対に自分を生かす道である。



自分を生かす―活かすとは、自分を輝かせることである。

目的を達成することは、その中にあっても、

一部である。


目的に達することだけが自分を活かすことではない。


『葉隠』に出てくる「犬死」をしても、

自分が輝くこともあるのだ。

武士道はそういうものなのだ。


 生は死があってこそ輝く。

手塚治虫の『火の鳥』というマンガに、

死なない人間の苦痛が描かれていた。


現実に死なない人間はいなくても、

死を忘れる人間はたくさんいる。

ほとんどの人がそうであろう。

自分は死なないと思っていて、

あるとき目前の死に出くわす。


まるで真っ暗な巨大な山のように

立ちふさがる。


その暗闇の中の化け物のように

突如姿をあらわした

死を受け入れることができるだろうか。

できるものではない。


 武士道とは死ぬことと見つけたりの

「死ぬこと」とは別の表現をすれば

「死を受け入れる」ことである。



臨終の床にあって、

死を受け入れた人間は、穏やかに亡くなっていく。

死を受け入れられなかった人間はもがき苦しむ。


だから日々、死を見つめて、

「今、俺(私)は死ねるか?」

と自分に問うことが大切であろう。

それが、今生一度きりしかない死を乗り超え、受け入れるための

訓練であり、

日々の生を自分らしく輝かせる秘訣になろう。


 日々死を見つめることで心が成長する


 俯瞰してさらに高い位置から死を見つめると

私は死なないと思っている。


なぜならば、今、こうして意識して文を書いているのであるが、

この意識は、肉体がなくなると、一緒に消えてしまうとは

どうしても思えない。


意識は肉体が消えても、厳然として「ある」のではないかと

感じている。

考えているのではない、そう感じているのだ。

いや感じているだけではない、


「それを私は知っている」としかいえないような確信めいたものを

もっている。



 そうすると前述してきた「死」とは、

肉体とそれに伴う個性の死と表すことができよう。

私の人生のテーマは、「意識の成長」であるが、

意識と切り離された肉体の死に日々目を向けることは、

「意識の成長」につながるのではないかと

今、気づいた。

 「意識の成長」とは、より一般に通じる言葉でいうと

「心の成長」である。

つまり、日々、死に意識を向けることは

「心の成長」を促進させるのではないか。

いやさせるだろう。


 なぜならば、意識=心の成長とは、

肉体を中心とした現実世界から、

意識=心を引き離していくことであるからだ。


 別の言葉を使えば、

とらわれをなくしていく。

武士の必修科目であった剣術において、

柳生も武蔵も鉄舟も、達人たちが強調しているのは、

とらわれをなくすことであった。

敵の刀にとらわれていたら、切られてしまう。


敵の目を見ることが大事だからと、目ばかりを見ていたら、

負ける。


もっとも肝要と思われる敵との間合いでさえ、

そこに気をとられていたら、


自由を得ない。

あらゆる現象、思考、感情から解き放たれていなければ

勝てない。


 「武士道とは死ぬことと見つけたり」


というと、武士が大上段に構えて、向こうを張って、

大げさに言っているように思われがちであるが、

そうではない。


生か死かというときに死をすぐに選ぶ、

潔さ、勇気。


とともに、日々の鍛錬で「死を見つめる」

ことの大切さ。


これは死を日々覚悟することによって、

実際の死において、死への恐怖を減らす効果がありうる。


それだけではなく、

「死ぬこと」を見つめることによって、

意識―心が成長し、拡大する。

深読みであるが、

そんな目的が「武士道とは死ぬことと見つけたり」

にはあったかもしれない。


 静かに死を見つめて、自分らしく生きる


以下、冒頭に掲げた『葉隠』一節の続きである。

毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、

武道に自由を得、一生落度なく、家職をし果たすべきなり。

【訳文】

毎朝、毎晩、心静かに、死を考え死を思い、つねに死に身になっているとき、武士道の覚悟が身に付き、一生、あやまちもなく、武士の務めを果たすものである。

(山本常朝原著 松永義弘訳『葉隠』教育者新書)

 これをわれわれ現代人に当てはめてみると、

毎朝毎晩、心静かに、死を考え死を思い、つねに死に身になっているとき、

人生に自由を得て、一生あやまちなく自分らしく生きられる


                                       (END)