Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

人間は何かに役立つためだけに存在しているのか?






 役立たないとしなくなった役立たないといられなくなった現代人

 

現代人はあまりにも「役立つ」ことのみに焦点を当てすぎている。


 美しい花を見るのは情操を高めるためとか、花からエネルギーをもらって元気になるためという人がいる。


 あえてそう思うのは悪いことではないし、私もある花を見るとなんとなく元気になるから意識して見ようとすることもある。


 しかしそればかりになってしまうのは、不自然だと思う。


 花を見るのは理屈があって見るのではない。見たいから見る。自然に目が留まる。美しいから見るのである。


 いや「美しいから」という言葉もいらない。理由は何かわからないが見てしまう。そして「美しいなあ」と感じる。そして元気になる人もいる。情操が少しは豊かになっているかもしれない。


 花は人から見てもらうために咲いているわけではない。道端の花壇に咲く花は人に見てもらうためにあるが、人間が観賞用に植えた。


 小鳥たちも人から聞いてもらうために鳴いているわけではない。小鳥の仲間に話しかけていることもあろうが、一羽でひたすら鳴いているときもあるが、人に聞かせているわけではない。


  私のような人間が聞いて「鳥の声は音楽と同じだな」と勝手にありがたがっているだけのことである。


  花は人から見られようが見られまいが咲いている。

  鳥は人から聴かれようが聴かれまいが鳴いている。



 人間が美しいと感じ、食べ物をおいしいと味わい、心地よくなるのも、何かのためにやっているのではない。


 美しいものを鑑賞すれば心が洗われるとか、おいしいものを食べるのは身体のためとか、気分よく過ごすのは力が湧いてくるためとか後付けすればいくらでもはめられる。


 実際にそうだとしても、後付けに過ぎない。その後付けがなくても美しい、おいしい、心地よいという感覚はある。それが自然な姿である。


 その後付けとは理由のことであるが、理由があってそれらを感じたり、おこなったりするわけではない。


 まずは、感じたりした結果、理由ができて、もしくは他人からの情報を得て、理由付けをしているに過ぎない。


  何か役立つことにしか選択できない。行動できない。生きていけなくなった人は、自分も何かの役に立たなければ生きていてはいけないのではないかと思ってしまう。


 今の社会においては、それどころか昔からかもしれないが、社会の中で誰かに役立って報酬を得る。だから役立たなければならないと思う。また、人の役に立って喜ばれると嬉しいので役立つことを行う。


  しかし、人間の存在そのものが少なくとも社会の中で役立つためだけに在るわけではない。

 

 これは決して、社会に役立つことや人から喜ばれることを否定しているわけではない。それのみの存在ではないことを伝えたい。




  「自分の使命を知りたい」




  自分の使命を知りたいという人が多いが、「使命」といったらエンジニアだったり、教師だったり、作家だったり、事業家だったり、政治家だったり、…を思い浮かべる。


 職業でなくてテーマでもよい。世界から貧困をなくす、わが町を活性化し賑わいのある地域にする、世界をパラダイス化する、世界中の人々を感動させるコンテンツを創る…。


 このように職業にしても事柄にしても、多くの場合、この人間社会に貢献するのが使命であるという前提で、人々は自分の使命をさがし、それが使命だと思って活動している。


  「使命」を否定するわけでない。だからさがしてもいいし、「これが自分の使命だ」と取り組んだ方が生きがいを感じるかもしれないし、人々により多く役立つかもしれない。


 いずれにしても、過去から今日まで続いてきた世界人類の文明に貢献するか、文明を変えるのに貢献するか、そのどちらかの範疇に入るであろう。


  しかし、神様がいたとして、神はそんな使命というものを人間に与えるだろうか。


 あまりにも小さ過ぎはしないか。


 広大無辺な宇宙から見て砂粒にも満たない地球に張り付いて生息する微生物のような人に一人一人に、つまり一つ一つの微生物に使命を与えているだろうか。


 言葉を換えれば「あなたは地球上で〇〇に役立つために神様がこの地球に生まれさせたんだよ」というような使命はあるのだろうか。少なくとも、誰かや何かのために「役立つ」ことが「使命」だとすれば、とても限定されたちっぽけなものになってしまわないか。


  神様が地球のためだけにあるとしたら、そういうこともあり  うるかもしれないが、それだけが神様ではあまりにも小さすぎないか。


  人間は器ではない。器とは何かに役立つ道具の意味である。人間は「何かに役立つためだけ」に存在するわけではない。


 社会や誰かに役立つことはけっこうで、生きていくために私もするし、他の人にも推奨するが、人間はそれだけしかない存在ではないことを言いたいだけだ。


   じゃあ、使命はないのかということになるかもしれないが、使命はあってもなくてもいいと考える。


  私は自分のやりたいことをやればいいと思う。世界に〇〇で貢献したいなら貢献すればよい。▽▽で人の役に立ちたいならすればいい。「・・・をしたい」が自分の深いところから出てきたものであればあるほど、それは「使命」といってもいいと思う。別に「使命」という言葉を使わなくてもいいが。


 それをすることが社会の役に立つことであるか、否かは問題ではない。自分の深いところから出ているか否かの方が大切で、たとえ役立つか役立たないかはわからなくてもやりたいのならやった方がいいと思うし、「使命」があるとしたら、それが「使命」なのだと思う。

 

 人それぞれが神であり、(実は神という概念よりもっと大きなものであると思っているが便宜上、神と言おう)、別の言葉でいえば神とのつながりをいくらでも深めることができ、終いには神になってしまう存在であると思っている。前記の「使命」に対しての考え方もそこから来ている。


 大木は世の役にたたない。それがどうした?


  『荘子』からエピソードを紹介する。

  恵子(けいし)が荘子(そうし)に向かっていった。

  「私の家に大木があるが、人はこれを樗(ちょ)とよんでいる。その太い幹は、こぶだらけで、墨縄(すみなわ)のあてようがない。その小枝は曲がりくねって、規矩(さしがね)も役にたたない。だから、この木を道端に立てておいても、大工も振り向かぬ始末だ。ところで、お前さんの議論も、この樗の木のようなもので、大きいばかりで無用のしろものだ。だれも振り向いてくれるものはないよ」

  (森三樹三郎訳『荘子Ⅰ』中公クラシックスより)


  荘子はこの後、樗の大木について恵子にこう答えている。

「お前さんは、せっかく大木をもちながら、役にたたないことを気にしておられるようだ。それなら、いっそのことこれを無可有の郷(筆者注-人も物もまったくない土地)、広漠としてはてしない野原に植えて、そのかたわらに彷徨いつつ無為にすごし、その木陰でゆうゆうと昼寝したら、どうかね。

 斧(おの)や斤(まさかり)で命をおとす心配もなく、危害を加えられる気づかいもないものは、たとえそれが無用のものであっても、少しも困ることはないよ」

  (同上)


 この2000年以上前に書かれた『荘子』という本のおかげで、「樗材」の意味が、「①役に立たない材木②役に立たない才能や人材。」また、自分をへりくだっていう語。樗材。(デジタル大辞泉)になってしまったが、荘子(荘周)は『荘子』という本で、樗という大木がせせこましい人間社会では役に立たなくても、人間には計り知れない、それらを超越した存在であることをいいたいのであろう。

 

 ちなみに「役に立たない人」を「木偶の坊(でくのぼう)」という。詩人で童話作家の宮沢賢治は詩『雨ニモマケズ』で


「ミンナニ『デクノボー』トヨバレ 

ホメラレモセズ 

クニモサレズ

サウイフモノニ 

ワタシハナリタイ」


とそういう「木偶の坊(でぐのぼう)」を切望した。




 役立つ役立たないを超えたはかり知れない存在




 人間は、霊的に見ればひとりひとりが、名もない大木だ。社会で役に立つ立たないを超えた大きな存在である。


 と同時に、身体に備わった個性というものがあり、なんらかの木である。たとえば、桜であり、ヒノキであり、クヌギであり、百日紅であり、椿であり・・・。


 それらは観賞用であったり、木材になったり、薪になったり・・・。人間社会の中でなんらかの役目を果たす。一方で人間にはなんの役にも立たない木もある。


 私は人間は消費しているだけで、経済社会の中で役立っていると考えるので、社会の中ではまったく役立っていない人間はいないと思うが、それはここでは問わない。


  たとえ、社会でこれといった特別な役割を与えられていなくても、そして何かができるのにそれをできなかったとしても、繰り返しになるが、すべての人がその本質では、計り知れない大きさを有する大木であることを忘れないで欲しい。


 存在しているだけで意義がある何者かであり、価値という尺度を超えた、広大無辺な存在である。


花は誰が見ていなくとも咲く。


鳥は誰が聞いていなくとも鳴く。




人はただ花を見て、ただ鳥の声を聞く。

そこには「〇〇のため」は存在しない。