Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

「教養」という「木」を自分の中に育てる2



 「教養」があるとブレにくくなる

  今、「自分軸」とよく言われるが、自分の中に「教養の木」が立っているか否かは、「自分軸」の有無に大いに関係してくるに違いない。

  つまり、「教養」という「木」が自分の中に立っていて、それが高く大きければ大きいほど、その人を支える力になるし、様々な出来事を吸収できるようになるから、ぶれることも少なくなるだろうし、人生を豊かにさせてくれるのだ。

  教養について『岩波国語辞典』にはこう定義されている。

【教養】学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。

 
  この表現は素晴らしい。単なる知識ではなくて、それを身につけることで「養われる心の豊かさ」となっている。

「知識」をただ「記憶」とするのではなく、「心の豊かさ」に結びつける。



『広辞苑』には、

【教養】①教え育てること。②単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。

 

 『岩波国語辞典』と『広辞苑』ともに共通しているのは、「一定の文化理想」という言葉。そのもとに、個人が身につけるのが教養であるという。

 

 わたしの前述の表現では、「教養の木」の大地とは心とした。その心という大地は自分の生まれ育った地域や伝統によって表層部は形成されている。(心はもっと広大なものである…)

 今、日本で生まれ育ったなら、まず日本の文化・伝統の中に根を張り、そこに自分だけの幹を成長させ、枝葉を繁茂させる。それが、一定の文化理想を体得するということだろう。

 日本というと当てはまらない人がいるかもしれないが、まずは一つの歴史や文化を学び、他の歴史や文化へと広げていくことが、教養という木の成長の仕方といえるだろう。

 

 また『広辞苑』には、【教養小説】の意味を

「主人公の人格の形成・発展を中心として書いた小説。ドイツ文学の主流の1つ。」

と記述しているが、まさに、「人格の形成・発展」を促すのが「教養」であり、その人の「人格の形成・発展」を示しているのが、「教養」である。

 

 単なる知識ではないし、AIに人格がなければ、AIには「教養」は持てないのである。

 ここまで書いて思いついたのであるが、「教養」とは、その人が持っている「知識」として現れるが、その人自身の「表現」と言い換えてもよい。

 

 つまりA君ならA君の内面、BさんならBさんの内面が表されている、そういう「知識」が豊かで大きく深い人ほど「教養」ある人といえる。

 

 その意味で自分はまだまだである。

 近年のリーダーの顔と教養

 余談であるが、つい2,30年前までは各国のリーダーを映像や写真で見ると、いかにも「教養人」という人が多かった。

 日本でも、各企業のリーダー、とくに経済団体のトップは、ほんとうに「教養」があると思える人がいた。

 そして、その人たちに語らせると、経済のことだけではない、まさに「教養人」といえるような豊かな内面を持っていた。

 

 現在は、各国のリーダーにも、日本の財界にもほとんどそういう人は見当たらない。少なくともマスコミやネットの中では、ほとんどそういう人を見たことがない。あくまでも私見であるが。

 むしろ市井のおばさん、おじさん、おばあさん、おじいさんの中に、きらっと光るような教養を感じさせる顔を持つ人がごくたまにではあるがいる。それは、決して知的であるとはイコールではない。

 

 今後は、次の時代を担う若い人たちに期待を寄せるしかない。10年、20年、30年とかけて自分の中に「教養」を育てて行ってほしい。

 また、若い人だけではない。どのような年代の人も、少しでも自分の「教養」が深く、大きくなるよう勉強し、行動し、思索をしていきましょう。

 

 そうすれば、自分がより幸せになれるし、他の人も幸せにすることができる。自分の周辺の家族やグループにも影響を与える。

 

 国家のリーダーともなればその影響は計り知れない。

※「教養」と「悟りや覚醒」は、違うものであろう。それについては、後日考えてみたい。