自分には他の人から見て「教養」があると思われるかどうかはわからない。
だから自分を棚に上げてお願いする。
どうかとくに若い女性や男性には「教養」を身につけたいと望んでほしい。
早く身につけろと言っているのではない。
「いつか教養ある人間になりたい」と願って、地道に内省し、勉強し、行動していって欲しいのだ。
今、いくら山ほどの本を読んだからといってすぐにそうなれるものではない。
「教養」とは、書店などに並んでいる「教養を身につける本」といったたぐいの書籍の中にはないと思ってくれた方がよい。「教養」を身につけるとは、「知識」を増やすことではない。
クイズ番組で出題されるような知識をそれがいかに世間的に知られていない意外な知識であるとはいえ記憶したって、「教養のある人間」にはなれない。
浅薄な知識を自分の大脳皮質にいくら入れていたって、そんなのは生きていく上での力にもなんにもならない。
教養とは「自分だけの知識の体系」である
私は「教養」とは、自分の中に「自分だけの知識の体系」を打ち立てることではないかと考えている。
「知識」の体系といっても、学者がするようなそれではない。
どんな職業の人でも身につけられる。
それを世間に示して、評価される必要もない。
自分が生きていくために力となるものである。
「知識」という言葉を使うのも、憚れるが、
単なる知識は忘れれば消えてしまうが、
自分の身体や心に強く結びついている「知識」であり、
それらが自分の中で結びついた
「体系」が「教養」であると私は考える。
その体系とは「木」に例えられる。
根があり、幹があり、枝があり、葉がある。
根は大地に張っていればいるほどいい。
この場合の大地とはなんであるのか?
自分の心である。
自分の心に根を張るような知識を植え込み、
そこから幹を育てるが、それには、
本を読んだり、講義を聞いたり、動画を見たりしているだけではだめなのだ。
行動であり生活である。
しかも、それだけでも足りないであろう。
自分が本で読むなどして得た知識と経験とを照らし合わせて、
自分を客観的に観て、自分の心を見つめなければならない。
そうやって、繰り返していくうち幹は太く、高くなり、
四方に枝が伸び、葉っぱにおおわれるようになるだろう。
その葉とは、「教養を身につける本」や「クイズ番組」に出てくる
知識程度のものであるかもしれない。
しかし、自分の枝や幹、根と結びついているものであるから、
強くて豊かで、その人自身を表しているのだ。
葉っぱは取り換えがきくし、いくらでも生えてくる。
葉がついていなくても、ネットで検索したりAIに聞いたりして、持ってくればよい。根と幹、そしてそこから延びている枝さえあれば、
今の時代は、葉っぱはいくらでも外注できるのだ。
