もう何年も前になるが、娘や息子の小学校や中学校に行くと、よく「夢」という言葉を使った標語が貼られていた。「夢に向かって前進」など。
これは、日本の学校教育が、「夢」を持つことを推奨しているためだろうと考えた。
そして違和感を覚えた。
私は、イチローや大谷が小さい頃から大リーグで活躍することを目指したように、全員が夢を持つ必要はないと考える。
私自身は、ずっと夢を目指してきた人間であるから、あまりいう資格はないかもしれないが、「夢」はなくてもいいという考えの背景にある理由は、あまり他の人が言わないことだろうから、ここに書いてみよう。
自分とは、社会(地球上の世界や人類社会)以上の存在である。
この場合の「自分」とは、単なる自我のことではなく、「ほんとうの私」と表したり「(自分の中にある)大いなる存在」といってもいい。
「自分」について、こう書いてみると、あたりまえのことのように感じられるかもしれないが、もう1回書く。
自分とは、社会以上の存在、社会よりずっと大きな存在である。
なのに、夢や目標が見つからないからと、なぜ嘆くのだろうか。
見つからなくてもいいではないか。
だって、夢や目標とは、多くの場合が、社会の中の何かになったり、社会の中の何かをすることでしょう?
それは、自分よりずっと小さな存在である社会の中の、さらに小さな何かに照準を合わせることになる。
心からそうなりたいのであるならば、夢はむしろ目指すべきであるとは思う。
なぜならば、それは「ほんとうの私」もしくは「大いなる存在」が望んでいることだろうし、それらと一致することだから。
しかし、無理矢理、夢を作ってそこに自分をはめ込むことは、社会よりずっと大きな存在である自分(私)を小さくしてしまうことになる。
夢や目標がないならないで、どっしり構えていればいい。そして、自分の中に沸き上がってきたら、その夢を目指せばいい。
沸き上がってこないなら、こないで、生涯、夢を持たずに生きればいい。
どちらにせよ、いつか、自分という存在そのものが、1つの「夢」になっているであろう。
