死とはなにか?を考えても意味はない。
意味はないとは言い過ぎかもしれないが、考えてもわからない。
考えるのではなくて、感じるしかないだろう。
一番いいのは、死を体験すればいいのであろうが、
死んでしまうということは、せっかく死を体験してわかっても
少なくとも「この世」において、言うことができなくなる。
つまり、「この世」という表現の場を失うことである。
ならばやはり死を感ずるしかない。
なぜ「死をわかろうとする」のか。
死とは人生の半分を占めているからである。
前にも書いたが、死があるからこそ生がある。
わかりやすく言語を例にとっていえば、
「生」という文字があるのは「死」という文字があるからである。
「死」という概念があるからこそ「生」という概念がある。
そして死がわかり意識すればこそ、より充実して生きることができる。
どうやって生きて行けばいいかわかる。
「死」をわかるに、いくら考えてもほんとうのところはわからないのは
「リンゴ」の味をいくら考えても食べてみないとわからないのと同じである。
でも、死はとくに、リンゴの味もそうであるかもしれないが、
感じようとするとそこに近づいていけるような気がする。
考えれば考えるほど、遠ざかっていくが、
感じよう感じようとすると、近づいていける。
私は、輪廻転生があるという考えを自分の人生に採用しているが、
もしその立場に立てば、輪廻転生によって何度も死を体験しているのであるから、
そのときどきの死の感覚は必ず残っている筈だ。
だからこそ感じよう感じようとすれば、
それを思い出すときがくる。
戦国時代、農民であったとき戦争に巻き込まれて死んだ痛み。
江戸時代中期、裕福な商人として健やかに天寿をまっとうした安らかさ。
明治時代初期、数人の幼き子供たちを残して死んでしまった母親の無念さ・・・
これらは皆、想像だが、「痛み」、「安らかさ」、「無念さ」という感情は魂に刻まれていて、
今の肉体に表われてくるのではないかと思う。
それを意識して感じようとすれば感ずることはできるのではないか。
こうやって死をひも解いてゆく。
輪廻転生は置いておいても、
ゾウは自分の死ぬときがわかり、集団から一匹だけ離れ消えて行くと聞いた。
他の動物にもいるだあろう。
地震、天災を察知してまっさきに逃げて行く動物、生物もいる。
人間も心境の高い人間は自分の死ぬ時期がわかるという。
釈迦もそうだし、歌聖の西行も、
昭和の哲人・中村天風も自分がいつ死ぬかわかった。
これも、死を感ずることであり、
死とは何であるか?を感ずることの一部である。
ともかく、現代人は、死から離れすぎてしまっている。
身近に直接死の場面に出くわすことはないし、
ほんとうに死ぬまで死の危険にさらされることはめったにない。
ということは、死があまりわかっていないわけでそれはつまり、
生が、生きるということがほんとうは分かっていないということだ。
だからこそ、感じようとしてみる。
一歩一歩であるがそうしていくことで
自分を取り巻く霧が晴れて宇宙が少しずつ見えて行くことだろう。
