ボーっとしていることが大切だという話を書きたい。
そもそも、東洋的な大人物とくにかつての日本では、一流を抜いて飛びぬけた人物は、みんなどこかボーっとしていた。
ボーっとしていないと大人物と認められないのではないかと思えるくらいである。
切れ味鋭い、超優秀な人物でも、年齢を経てボーっとし始めてから、大物の類となる。
いや若くしても、あえてボーっとした要素をその切れ味鋭い頭脳に覆ってこそ、誰もが認める大型の人物と認められる。

日清日露戦争の勝利に多大なる貢献をした大山巌元帥は、その典型であろう。
弥助砲と呼ばれる大砲を若い頃設計した彼は、そうとうに頭の切れる人物だったらしい。
ところが、日清日露で指揮をとる頃には、茫洋とした人物に、自分を育て上げていた。
今、これを書くためにwikipediaで、「日清戦争(1894年-1895年)直前には右目を失明していたという記録が残っている」という一文を読んだが、もしかしたら、この失明が彼の心に影響を与えたのかもしれない。
なぜ、ボーっとすることが大事なのか?
他人の欠点を気にしない、人の言葉や行動にとらわれなくなり、包容力が身につくだけではない。
私が分析するに、もっとも大きな効力は、「理外の理」を得られることである。
いかに頭脳明晰でも、そこには限界がある。それは見える世界の中での知識、英知でしかないからである。
見える世界は有限である。
しかしボーっとすることで、真我から(それは神といっていい)、知恵をいただけるのである。
無限の世界にアクセスできる。
すると何よりその場その場で本質を衝いた言動をとれる。一局面だけでなく全面的包括的に適切な対応をする。まさに的確な判断となるであろう。
別に、大物でなくてもいい。
ときにボーっとすることは、誰にでもその効力を発揮することであろう。
とくに普段、せわしく頭を使っている人は、試してみると思わぬ結果を得られるであろう。
