(2020年8月)
アブラ蝉の声がすがすがしい。
蝉しぐれとは、蝉時雨と書くことを先ほど知った。
なんて的をえた言葉であろう。
蝉の声ほど「時」を忘れさせる音はない。
昨晩(22日)は所沢の「円らく」という店で飲んだ。
古民家を改装した店である。
大きなガラス張りになっていて、窓の外がまるで
内にあるかのように見える。
天井が低いのも、
穴倉でくつろいでいるよう。
毎年ここで暑気払いと忘年会を行うのであるが、
このたびは、ひそかに食べ物を味わってみることにした。
ほぼ仕事の話で頭をおおわれる中、
舌に意識をもっていくと、いかに日頃から
神経の針が思考側に振り切られているかがわかった。
味覚をしみじみ感じてみると、
料理の美味さに気づくとともに
アウトからインカメラに切り替えるように自分に戻れる。
誰もが自分の中に「天」をもっているのだ・・・
中国の後漢時代、仕事を終えたある役人。
露店で薬売りの老人が、軒先にぶらさげた「壺(つぼ)」の中に
シュウと吸い取られるように入って行くのを見かけた。
他日、その役人は「私も壺の中に入れてほしい」と頼み込み、
老人とともに壺中の人となった。
中には立派な建物があり、
美酒と美味をぞんぶんに楽しみ、
役人は老人と下界に戻った。
これが『後漢書』にある「壺中の天」という話。
「壺」を趣味になぞらえて、
「非日常の世界をもつべき」だというが、
「趣味」をもたなくても、
誰もがいつでも壺の中に入ることができる。
蝉の声をただ聞く。
路傍の花を愛でる。
料理を味わって食べる。
月を眺める。
夕焼けに酔う。
夜のしじまに耳をすます。
朝のすがすがしい空気にひたる。
下したてのシャツの肌感覚。
・・・・・・・
こうして今に入り込めば
いつでも自分の心という別天地に行ける。
誰もが心に「壺中の天」を抱いているのだ。
