猛暑が過ぎたら、
いきなり温度が下がって、
肌寒くなった。
一方、コロナの影響で
社会は激変している。
こんな時代だからこそ、
皆が知るこの格言をあらためてなぞってみると、
生きるヒントが見えてくるかもしれない。
中国の古典『淮南子』にある
「人間万事塞翁が馬」。

まとめるざっとこんな感じになる。
ある家の馬が胡(※当時の国の一つ)に逃げた。
人々は気の毒がった。
ところがその家の父親は、
「これがどうして福をもたらさないといえようか。」
逃げた馬が胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々は祝った。
ところがその父は、
「これがどうして禍(わざわい)をもたらさないといえようか。」
家が良い馬に恵まれた。息子は乗馬を好み、落馬して足の骨を折る。
人々が見舞うと
父は「これがどうして福をもたらさないと言えようか」
1年後、胡軍が攻めてきた。多くの若者が戦死した。
しかし骨を折った息子は兵役を免れ、父子共に生き延びた。
福は禍となり、禍は福となる。
変化は予測することができない。
この話を以下のようにアレンジしてみた。
ある家の馬が胡(※当時の国の一つ)に逃げた。
人々は気の毒がった。
ところが、馬が嫌いな、その家の息子は喜んで
「なんと幸福なことだ」
逃げた馬が胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々は祝った。
ところが息子は、
「禍(わざわい)がもどってきた」
それから家が良い馬に恵まれた。
息子は仕方なく乗馬をして、落馬して足の骨を折る。
人々が見舞うが
馬に乗らなくてよくなった息子は
「なんと幸福なことか」
と喜んでいる。
1年後、胡軍が攻めてきた。多くの若者が戦死した。
しかし骨を折った子供は兵役を免れ、父子共に生き延びた。
ある日、息子はつぶやいた。
「なんと禍多き人生なんだろう。俺はこの親父とずっと暮らすのか…」
息子は親父が嫌いだった。
この話の意味するところは、
ある人から見れば福であっても、ほかの人から見れば禍となることもある。
ある人から見れば禍であっても、ほかの人から見れば福となることもある。
つまり、もともとの「人間万事塞翁が馬」では、
福から禍へ、禍から福へと窮まりない変化があり、
予測できない。
だから福と禍に一喜一憂すべきでないことを示す。
一方で、後者のアレンジは、
同じことでも見方が変われば、福にもなれば禍にもなることを示す。
これは言い換えれば、
人生には福と決まった福もなければ、禍と決まった禍もない。
時には同じことが福にもなり、禍にもなる。
つまり、福も禍もないんだよという意味だ。
それこそが「悟り」的な世界の見方だ。
実は、「人間万事塞翁が馬」そのものが、
深い部分で言いたいことは、そのことではないかと思う。
福から禍、禍から福へと変化するけれど、
それは目の前に繰り広げられる現象であって、
実体は福も禍もないんだ。
そう決めている誰かがいるだけだと。
「人間万事塞翁が馬」の話は、
『淮南子』という中国の古い書物に出てくるが、
『老荘』もベースになっているという。
ならば「悟り」を語っていてもおかしくない。
