カマキリが2階と3階の間、その階段の踊り場にある柵の上を這っていた。
この言葉を思い出した。
蟷螂(とうろう)の臂(ひじ)を怒らして以て車軼(しゃてつ)に当たるがごとし。『荘子』
[訳文]
カマキリがそのかまを振り上げて、大八車に立ち向かうようなものだ。とても敵しうるものではない。
「蟷螂」はカマキリ。「車軼」は車輪。
すでにかまを振り上げていたが、私の指でカマキリの敵のように挑んでみた。
さて、彼は立ち向かってくるであろうか。
すでに振り上げていたかまをぴくつかせたが、一目散に飛んで斜め前にあるケヤキの木の中に逃げてしまった。
これで思ったのは、上記の格言は、カマキリが自分より途方もなく大きな車輪に立ち向かったというわけではなく、ただかまを振り上げただけではなかったか。
それを見た人間が、「車輪に立ち向かっているように見えた」だけではなかったのか。
一方で、私が見たカマキリも、指で攻撃する素振りを見せられて逃げたわけではなく、ただそのタイミングで飛んで去っただけではないのか。
自然や物、あらゆる現象は、ただそうなっているだけで、別になんらかの意図があるわけではない。ただ、人間が意味づけする。
そして、その意味づけは見る人間によって異なってくる。
馬鹿らしいとまではいわないが、あまりその意味づけにこだわるのも実相と違ってくるであろう。
「ラインの既読スルーもそうだ。」と気づいた。
最近、私がある人に送ったラインのメッセージが既読になったものの、いつまで経っても返事が来ない。
すると、
「自分の質問が悪かったのではないか?」
「気分を害したのではないか?」
「怒っているのではないか?」
「いやあ、もともとそういう冷たいところがある人だったのではないか?」
「ほんとうは返事をしようと思っていて忘れているのではないか?」
などいろいろな考えが浮かんでくる。
つまり「既読スルー」1つをとって、いくつものストーリーをこさえてしまう。
「既読スルー」はただの「既読スルー」。
なぜ、相手がそうしているかは、相手でなくてはほんとうのところはわからないし、本人でさえなぜそうしているかはわからないかもしれない。
そう。「カマキリがかまを振り上げた」のが、「攻撃」をしてきたのか、「怖がっている」のかを詮索してもしょうがないのと同じなのだ。
「カマキリがただかまを振り上げている」だけ、「既読スルーもただ既読スルー」
ただそれだけなのである。

