Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

志少しも退かず~沢庵





常の凡夫、信力なくして三年五年に知ることに非ず、

学道の人、十年二十年、十二時中、そつとも怠らず、

大信力を興し、知識に参じて、辛労苦労を顧みず、

子を失ひたる親の如く、立てたる志少しも退かず、

深く思ひ、切に尋ねて、

終に仏見法見も尽き果てたる所に到りて、

自然に之を見ることを得るなり。   沢庵『太阿記』より




専門のピアニストやヴァイオリニストは、

年がら年中、一日に十数時間の練習をしなくては

専門家として立ってゆけないという。

子を失いたる親のごとく、

そのことばかりかんがえつづけて、

はじめてそこに到るのであるという。

 こうして成就する心を禅師(※筆者中―沢庵禅師)は

 太阿の名剣といった。

           紀野一義『名僧列伝(一)』より



-※私は志と夢と違うと思うのですが、

ここでは区別しないでおきます-

「子を失いたる親のごとく」

その志や夢のことを思うことが大事である。

沢庵の場合、仏の道をさしているのだろうが、

他のことでも同じであり、

また成功者の書いた本などいろいろなところで

「寝ても覚めてもそのことを思う」

ことの大切さは書かれている。

ただ、そもそも、志や夢というものは、

持とうと思って持てるものではないのではないか。

自力と他力でいえば、

他力の領域に入るものであろうと

私は考えている。




佐藤一斎(江戸時代の偉い儒者)は、

“本心”という言葉を使ってこう書いている。

学は立志より要なるはなし。

而して立志も亦之れを強うるにあらず。

ただ本心の好むところに従うのみ。

〔訳文〕

学問をするには、志を立てて、

心を奮い立たせて向かうより肝要なことはない。

でも、立志もこれを強制するものではない。

ただ、自分の本心の好むところに従うだけだ。



「本心の好むところに従うのみ」。

この“本心”というものは、

自分でコントロールできるものであろうか。

たとえば甘い物より辛い物の方が

好きになった方が健康にいいと聞いたからといって、

そう簡単に変えられるものではないだろう。





紀野一義『私の歎異抄』には

親鸞が「ただ念仏した」ことをあげて、

(前略)

要するに「ただ称える」のである。

誰かのためにするとか、人類のためにするとか、

そういうめんどうくさいものではない。

ただ親切にする。

ただ愛する。

風が吹くようにただただ行くのである。

もっとも、このただ称えるというのは、

うしろにもう1つある。

ただやりさえすればいいというのではない。

やらずにおれぬということがかくれている。

これが「ただ」の恐ろしさである。

背後からその者に行なわしめるものがいる。

促すものといってもよい。

新設にせずにはおれないから親切にする。

愛さずにはおれないから愛する。

どういうことがあっても止まらぬ力、

誰が止めても止まらぬ力、

どんなになってもせずにはおれない力が、

背後からいやおうなしに迫ってくる。

その時に「ただ」という世界が始まる。

(後略)   






志に向かわざるを得ないから向かう。

夢を追いかけざるを得ないから追いかける。

それが、ほんとうの志や夢であろう。

そして、その背後には

人間にはとうていはかり知ることができない

大きな力が働いているのだ。

今、若い子たち、子どもたちが

夢を持たなければならない、

目標を持たなければならないと

追い立てられているということを聞いた。

夢が自分の力でもてることができるものではない

ということを知ったなら、

志、夢を求めてあてもなくさまようのは、

完全にムダといわないが、

かなりの浪費であろう。

志、夢がなくて探すのに、有効な場合は、

志や夢をさがさざるを得ない、

いても立ってもいられない、

夢をさがすという夢が心の内に

植えつけられたときのみではないかと思う。

もし志や夢が今、ないというならば、

目の前にあることに感謝してこなしていくべき

なのだろう。

もしも、

背後に大いなるもの(神といっても仏といってもいい)

の働きがあるほんとうの志、夢なら

今それに向かっていくことは

「今ここ」を大切にしていることになる。

なぜならば、志や夢というものは、

自分の心の中に「今在る」ものなのだからだ。

それに向かうという事は

今を大切にしていることに他ならない。

それ以外の外部から取ってつけたような

夢、志であるならば、

それに向かうことは

今を犠牲にするということと

等しいといっても

過言ではないのではないか。

とにかく、夢を持て、

何かを目指せと、

子どもたちや若者を

追い立てるのはやめたいものだ。

          




最後に関連して

二つの言葉をあげておきます。



已むを得ざるにせまりて、

しかる後に、

これを外に発する者は花なり。(『言志録』)


かくすれば

かくなるものと

知りながら

やむにやまれぬ

大和魂    吉田松陰   

      (終)