意識の成長、成熟こそが、自分の最大の使命だと考えている。
自分だけではなく、実は誰もがそうだとひそかに認識している。
意識の成長、成熟は、意識の拡大、拡張といってもいい。
人によっては、魂を磨くとか、魂の成長という人もいるだろう。
それを心と置き換えてもいい。
意識が成長すれば、赤ちゃんがベビーベッドの柵の中で大きくなると自ずと抜け出ることができるように、
自分を取り巻く障害を簡単に乗り越えられるようになる。
言葉をかえれば、自分の周りに障害という柵があると思っていたことが間違いであることに気づけるようになる。
つまり、「ああ。柵だと思っていたものは、ただの自分がつくった幻影だったのだ」と。
そして、それは悟りともいうし、目覚めという。
だからここまででいいという悟りはないし、目覚めもない。
繰り返し悟りながら、気づきながら、目覚めながら
どこまでも、成長し、拡大していく。
その意味から、あの剣豪の宮本武蔵は悟っていたのだと思う。
かなり高レベルな-あまりいい言葉ではないが、
悟り、目覚めの段階に達した人だろう。
その証拠に、次の歌をみてほしい。
乾坤(けんこん)を其侭(そのまま)庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め
(「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地ともとる」という心を題として宮本武蔵が詠じた歌)
鎌田茂雄著『五輪書』より
つまり、「広大無辺な宇宙乾坤をそのまま庭として見る時は、自分は天地の外に住んでいる」というのだ。
まるで京都の竜安寺で石庭を見ているようだ。

仏教学者の鎌田茂雄は同著で、「仏者や禅者であれば、天地、万物と同様であることを悟る。禅の境地とは別の境地だ」といっているのであるが、どうであろうか。
宮本武蔵は、宇宙の外側から、宇宙というちっぽけな庭を見ているのであるが、
実は宇宙、天地を超えたすべてと一体であるからこそ、宇宙が庭のように小さく見えるのだといえないか。
彼は、もう宇宙とか乾坤(つまり天地)という概念を超えていたのだ。
私はそう思う。
じゃあ、どうしたら宮本武蔵のような悟り、目覚めを得られるか、そこまでの意識の成長、成熟、拡張ができるかということであるが、彼のような天才的な修行者でなくても、誰もができることなのだと思う。
なぜならば、それは元に戻ることであるから。
元々我々は、広大無辺、無限の存在(意識)であったのだ。
そのためには、まず私ができると思っていることは、
たえず自分の考えを生み出している“自分=私”をみること(これを『自覚』という)。
そして、考えを切り捨て、とらわれないようになっていくこと。
それを続けていくこと。
今の段階では、ここまでしかいえないが、
いずれまた見えてくるものがあると思う。
