Shinpi Me

神秘の私 / 内なる自由を見つける

”一発屋”から”不朽・永遠の人”へ




 芸能界では一発屋という言葉がある。


 私は、メディアの現場で彼らと働いてきたから多少なりとも、体験としてこうしたことを知っている。

 



 歌が一曲売れて世に出て、その後は売れなくなってしまった歌手。


 1つのギャグがうけてバカ売れしてその後は、鳴かず飛ばずになってしまう芸人。


 もっとも、近頃の芸人にはその一発屋という汚名を利用して、地道に仕事をもらっているものもいる。小島よしおやダンディ坂野がそれにあたるであろう。


 彼らは一度売れて転落するという憂き目にあって、それゆえに一発屋を売りにしつつも芸人を続けて行くという試練の中で今、自分とその芸を磨いているのかもしれない。


(私は彼らとは会っていない。)


 けれど、そもそも一発屋たちを俯瞰してみるに、


大衆に迎合した、うける芸ばかりを狙い、本来の芸人としてあるべき芸を磨くのを怠ってきた人が多いように思う。


「自分の芸とは一体なんのか。」と自分に問い、たえず見つめながら精進していくというようなプロの芸人魂の希薄さを感じられる。


 これは歌手や俳優でも同じである。


 中には、ベテランの人気タレントやプロデューサーにすり寄って


 それがゆえに頻繁に露出することが可能となり売れたものもいるであろう。


  そこで、思い出すのが、中国明代の書物『菜根譚』(著者は洪自誠)の次の一節である。

 道徳に棲守(せいしゅ)する者は、一時(いちじ)に寂寞(せきばく)たり。

 権勢に依阿(いあ)する者は、万古に凄涼(せいりょう)たり。

 達人は物外の物(ぶつ)を観(み)、身後の身(しん)を思う。

 寧(むし)ろ一時の寂寞を受くるも、万古の棲涼を取ることなかれ


 実は『菜根譚』冒頭の文なのであるが、まさに初っ端からシビレる。

 実にかっこいい。


 魚返善雄の名訳(角川文庫)を見てみよう。

 真理をまもる人は、さびしくも一時。権力にへつらえば、末代の名折れ。

 悟った人は物にとらわれず、なきあとのわが身を思う。

 いっそ一時はさびしかろうと、末代名折れのまねをすまいぞ。

 

 芸人にとって、一般大衆は権力者である。


 もちろんベテラン人気タレントや番組プロデューサーも。


 
 大衆やかれらにこびるものばかりを追いかけていると、

 自分の芸がおろそかになってしまう。



 それで、一発は売れたとしても、その後はだめになってしまう。


 一方で、基礎を学び、自分のほんらいの芸を追求して、

観客を楽しませて、怠らず磨いているものは

もしかしたら人気が出るのが遅く淋しい思いをするかもしれないが、それは一時である。


 売れるものもいるし、もしかしたらすごく売れるところまで

いかないかもしれない。


 しかしある程度食えるところまでいければ、

それでも自分の芸を追求しているから自信が育っていくし、

充実感はある。


 もしも1回売れたら、その名声は長持ちするであろう。


  『菜根譚』の文章前半を芸人にあてはめてみると、こうなった。


 このことは芸人だけでない。


 他のさまざまな職業、それから生活上でも

あてはまることが多いであろう。


 どうせ何かをするなら、一発屋でなく、「不朽」を目指したいものである。


 私はそう思って今にいたってウロウロしているが、この文は、未だあきらめられない自分への励ましでもある。


ところで後半の

達人は物外の物(ぶつ)を観(み)~

(悟った人は物にとらわれず~)


から先は、さらに奥深い真理を描いているが、

別の稿で書きたい。