彼は短パンから逞しくのびたふくらはぎの筋肉に触れてみる。
手のひらと足の皮膚に温もりを感じた。
「これは紛れもなく“オレの身体(からだ)”だ。しかし、オレだろうか?」
「そう考えている意識こそが『オレ』であって、身体はただの『カラダ』に過ぎないんじゃないか。」
(身体は量子という粒であり波動である実に得体の知れない何かの集まりにしかすぎず、そう考えるだけでも、「自分」と言えるには足らないであろう。)
「じゃあ、オレとは何?」
(量子は、観察者が見ているときは粒となり、誰も見ていないところでは波動であるという。つまり、見ているからこそ姿を現すのだ。)
「ならば、量子という消えたり現れたり、くっついたり離れたりするなんとも頼りない、物質だか波動だかなんだかわからないものの集まりを『身体』として規定しているのは、観察者つまり身体を見ているオレの意志だ。
だとしたら、『オレ』とは『意志』すなわち『意識』でしかないということになる。」
「もちろん身体の内側だけでなく、外側のすべてのものが量子でできているのだから
『オレとは、広大な量子の宇宙に漂う1つの意識』でしかないのではないか?」
彼はふくろはぎの筋をさすった。温もりが少し冷めた感じがした。
【ここまで書いて(捕捉)】
身体や宇宙が量子から出来ていると考えている‐規定しているのは「彼」である。
いや、量子から出来ているのは明らか、なぜならば物理学で明らかにされているではないかという人がいるかもしれない。しかし、物理学で証明されているから、もしくは一般的にそう言われているからと、量子という考え方を採用しているのは「彼」である。
つまり「彼」という自分が、量子という考え方を取り入れ、量子は観察者の意図の通りの実験結果を出すという規定をやはり採用しているのである。
禅語に「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」という言葉がある。「すべてはただ私の心がつくっている」という意味である。どうやらそれが真実らしい。いや私はそうとらえている。
