「まことの自己」という言葉を、カトリックの神父が使っていて驚いた。
仏教、とくに禅で表現されることが多い言葉である。「ほんとうの自分」とも言い換えることができる。近年は心理学や成功哲学、スピリチュアル系でも頻繁に用いられる。
キリスト教の勉強が足りないからそう感じたのかもしれないが、リチャード・ロールというニューメキシコ州フランチェスコ派のカトリックの神父が『上方への落下~人生後半は〈まことの自己〉へと至る旅』という本を書いている(日本ではナチュラルスピリットから先月-2020年8月に出版された)。
神はわたしたちに、魂、深奥のアイデンティティ、〈まことの自己〉、わたしたち自身の「無原罪の宿り」の際の独自のブループリントを与えられたと、わたしは信じています。
おのおのの天国的な部分は、造られたそのときに、製造者によって製品の中にインストールされたのです。
わたしたちは長い歳月をかけてそれを発見し、選択し、その運命を完全に生ききるのです。
『上方への落下~人生後半は〈まことの自己〉へと至る旅』より
一方、禅ではどのように表現されているだろうか?
たとえば、臨済宗の僧侶、山田無文の『自己を見つめる ほんとうの自分とは何か』を読んでみよう。
この世で生活していく肉体的な自分は、確かに自分そのものに違いない。しかし、そこにある真は刹那的なもので永遠ではない。永遠なる真実の自己とは、その肉体の中に眠り続けている。
形のない、姿のない、色のない仏性が、心の奥底にあるのです。その仏性と、現実に生活している肉体とがぴったりとひとつになったところに、本当の人生があるのであります。
『自己を見つめる ほんとうの自分とは何か』
神父と禅僧、おのおのの道の大家に異論をさしはさむ余地はないし、外側とつながっていないと言っているかどうかは知らないが、もしかしたら、自分の中へ中へと深く入っていくと、洞窟から大海へと続く抜け穴のように、自分の外側へとつながってしまうのではないだろうか。
こんな体験がある。
セブ島の海岸で海に向かって瞑想をしていたときである。
自分の体の外側から、深い気づきが与えられたような瞬間があった。それは自分の中からでは到底出てきそうにない気づき出会った。
まるで、風にのってやってきたかのように。

おそらくそのとき、瞑想をして深く自分の内面に入れていた。それがゆえに、自分を抜けて大いなるものとつながることができたのではないか。
そしてそのメッセージは自分すなわち「大いなる自己」から届いたのではないか。
それこそが、ほんとうの自分、まことの自己であるのではないか。
十年以上まえであろうか、かつて読んだ本を思い出した。
『まことの自分を生きる イエスと日本人の心』。
著者は、井上洋治というやはりカトリックの神父。
リチャード・ロールの本と出合うずっと前に、すでにカトリックの神父が発する「まことの自分」‐「まことの自己」という言葉に接していたのだ。
井上洋治はキリスト教小説の大家、遠藤周作と親友であった。
この本をあらためて読み直してみると、セブ島での私の気づきを裏付けてくれるようなことが書かれている。
まことの瞳をもって、生きとし生けるものを、まことの光、大自然のいのちの風のなかに見ることができたとき、人はこの大自然のいのちの風の中に真の自己を生きることができるのである。
『まことの自分を生きる イエスと日本人の心』
この著作に繰り返し用いられる言葉
「大自然のいのちの風(プネウマ)が生の根底を吹き抜け」
「大自然のいのちの風に己れを委ねて生きる」
「生の根底を吹きぬける大自然のいのちの風にまかせる姿勢」。
著者の視点と少しずれるかもしれないが、
私は自分の経験から「大自然のいのちの風」こそが「まことの自己」であると思う。
外と内の区別なく。ただ吹きぬけている風。
そのただの風こそが「ほんとうの自己」であるのかもしれない。
