ベランダに蝉(セミ)が死んでいる。
とおそるおそる羽をつまんだら、
いきなりばたばたと右往左往しながら
目の前の雑木林へと還っていった。
ここのところ
樹々から聞こえてくる
ミンミンゼミの鳴き声の
再生速度がかなり落ちてきた。
少しいらいらしながら
スロウな声を聞いている心に
悲しみの色がにじんでくる。
これはずっと幼いころからそうだったに
違いない。
始まる頃は湧き立つ心で、
終わりが見えなかった夏休みがもう終わる。
力の抜けたセミの声はその合図だったのだ。
かわりに日が沈むと、
夜の虫たちの合唱がひときわ大きくなった。
昼の蝉しぐれから夜の演奏会への移行。
うるさくなったというかむしろ、
夜がより〝静か〟に感じられるから不思議だ。
〝静〟をとても大切にしている哲学がある。
中国明末の哲人、呂新吾(呂坤)の
『呻吟語』である。
●静の一字は、十二時離れおわらず。一刻もわずかに離るればすなわち乱れおわる。
●天地万物の理は、静に出でて静に入る。人心の理は、静に発し静に帰る
●沈静なるは最もこれ美質なり
この〝静〟について、呂新吾はいっている。ただじっとしていれば〝静〟というわけではない。
心の問題であると。
沈静とは、たんに口を閉ざして沈黙していることを言うのではない。心が浮つかず、態度がゆったりしていること、これがほんとうの沈静である。
一日中しゃべりまくったり、あるいは戦場のなかで激しく走りまわったり、大勢のなかであわただしく動いたりしていても、沈静を損うことはない。なぜなら、心が落ち着いているからだ。
これとは逆に、少しでも上ずったり乱れたりすれば、一日中端座して沈黙していたとしても、おのずからそれが表情にあらわれてくる。かりに心が上ずったり乱れたりしなくても、ぼんやりして睡くなったのでは、これまた沈静とは言えない。
ほんものの沈静とは、心がすっきりと冴え、そのなかにいきいきとした働きを包みこんでいる状態をいうのである。
呂新吾著、守屋洋編・訳『呻吟語』(徳間書店)
いかにしたら心の静へ入れるか…
秋の虫たちの声に耳を傾けるのが手っ取り早い方法だ。
とくに、無数の鳴き声から、集中してただ一つの声に聞き入ってみる。
いつの間にかその声と自分が一体となって
ただ静寂の中にいる自分に気づくであろう。
世界と我はひとつである。
そのことを気づかせてくれる。
