冷房のタイマーが切れたころ、目が覚めた。
窓ガラスをあけると、
初秋の蝉の声が、
クタクタのまま耳に入ってきて
鼓膜を振動させた。
もうひと寝入りしようと床にはいる。
すると「自分を責め立てる声」がいつものごとく
脳内に降ってくる。
「体がだるいのは遅くまでネットを見ていたからじゃないか。」
「今日もまたあれを始められないのか」
「そもそもおまえは、この年まで何やってきたんだ」
身体各部をときおり突き刺すような言葉が、
戦場の銃弾のように飛び交ってゆく。
初めはパラパラとであったが、
頭上を飛び交う弾丸はしだいに増えてゆく。
ふと蝉の声に耳を傾けるが、
また銃砲が鳴り響き、戦場へと引き戻される。
こういうとき、いつも抜け出す方法を工夫する。
蝉や鳥の声を聞くのもその一つ。
成功して、ふたたび夢の中へ「ただいま」と戻っていけるときもある。
なかなか眠れなくて結局、いつもの時刻よりかなり早く
起きてしまうこともある。
今朝はありがたいことにインスピレーションをもらった。
「責めてもいいんだ。」
この言葉を自分に言い聞かせると不思議と弾丸の雨がやんだ。
なぜだとそれなりに分析してみる。
日頃から自分を責めない、自分を責めても益なしと知っている。
もともとくよくよ悩む性格であり、過去を取り上げても仕方ない。
自分を責めないよう努めてきた。
西郷隆盛も言っているじゃないか。
過ちを改るに、自ら過ったとさへ思い付かば、夫れにて善し、其事をば棄(す)て顧みず、直に一歩踏出す可し。過を悔しく思ひ、取繕(とりつくろ)はんと心配するは、譬(たと)へば茶碗を割り、其缺けを集め合せ見るも同にて、詮(せん)なきこと也。
(『西郷南洲遺訓』より)
〔訳文〕
過失を改めるというのは、自分で過失を知りさえすればそれでいいのである。
その過失を棄てて、新しい一歩を踏み出せばいいのだ。
過失について後悔し、その始末をつけようと心配することが多いのだが、それはまるで割れた茶碗のかけらを集めて継ぎ合わせるようなものであり、何の意味もない。
(高野澄著『西郷隆盛』徳間文庫より)
この「自分を責めないようにする」が
いつしか「自分を責めてはいけない」にかわり、
「自分を責めるな」という指令に変わっていった。
そして「『自分を責める自分』を責める」ようになったのだ。
悪循環。
ところが、今朝がた、天啓のように降ってきたインスピレーション
「自分を責めてもいい」。
その言葉によって
「自分を責めてはいけない」という観念が中和されて、
「自分を責める」観念が溶けてしまったのだ。
困ったことに、どんな良いことでもこだわりすぎると、
それができないことを責めるようになってしまう。
「自分を責めない」に固執して「自分を責めてはいけない」になってしまった。
だから逆も真なりで今度は「自分を責めてもいい」に
こだわり過ぎると「自分を責めなくてはいけない」
という観念がむくむくと立ち上がってしまうだろう。
過失はもう過ぎ去ったことであり、自分を責めずに許すとともに、
自分を責めている自分がいたら、それはそれで許す。
そう今朝の一幕に教えられた。
今はもう夕刻に入っているが、
昨晩遅く寝た割には、一日眠くならなかった。
