「あるがまま」とは、その人が心地いい感覚を得ているときのことをいうのではないか。
私はこの言葉に静的なイメージをもつが、「あるがまま」でいたいと何もしないで、苦しんでいたり、落ち込んでいたり、窮屈な思いをしているならば、「あるがまま」と言えない。
何かをしていて、とても心地いい、気分いい、気持ちいいならば、それはその人のあるがままな状態といえる。
もちろん活動といえるようなことは何もせず、ただぼっとしていても心地いいならば、その人の「あるがまま」である。
『アナと雪の女王』の1作目がヒットしたとき、主題歌の『レット・イット・ゴー』をめぐって、「ありのまま」でいいのかという議論があった。
翻訳の是非を問う人もいたが、この場合は生きる姿勢のこと。
美輪明宏は、ラジオ番組で「ありのままなんてとんでもない」といっていた。つまり人間は努力をして自分を変えてこそ本領を発揮できる。野菜の大根は大根のままでは役に立たない。煮たり削ったり調理することによって人の口に入るに足るものになる。
大方美輪の意見はそういうものであった。
『論語』にこうある。
子の曰く、
質、文に勝てば則ち野、
文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子なり。
【通釈】
質(きじ)が文(かざり)より過ぎると田舎者(いなかもの)のようになる。
文が質より過ぎると文書を掌(つかさど)る役人のようになる。
文と質とが平均して初めて人格の完成した君子となるのである。
※「質」は心の忠信誠実であること。「文」とは言語動作のりっぱなこと。
以上、宇野哲人『論語新釈』(講談社)より
この言葉の「質(きじ)」が「あるがまま」に当たるとして、
「文(かざり)」というのは、ここにあるような言語動作すなわち礼儀作法、
ふるまい、文筆の能力、知識・学問があることだけでなく、
メイクやファッション、バッグや持ち物など文字通りの「かざり」から、
ライフスタイル、資格、経歴など、
その人のもともとの気質以外のすべてが入ると考えられる。
その「質」と「文」が両方相俟ってこそりっぱな人というのであるが、
自分がほんとうは望んでもいないのに、人によく見せるため、ただ上昇志向のため、金の為に「文」を実行するのは、決して、「質」(心の忠信誠実)ではない。
人から見られることでも、きれい、かっこいいと思われることが、自分の正直に欲していることであり、喜びであるならばそれでいい。
この「質」と「文」とは離れているものではない。
『論語』にある「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」とは、「質」の心に基づいて「文」を行うことであろう。
そして、自分の心に忠実に、「心地いい」ことをおこなうことが「質」であって、
それは「あるがまま」といっていい。
「あるがまま」とは自分の気持ちが「心地いい」、「快適」、「気分いい」状態にあること。
きっと何をやるか、外側から見てどういう状態にあるかではないのだ。
