(2009年9月6日(日) の共同ニュースにこんな記事があった。)
李元総統が坂本竜馬像と対面
「天から降りた人」とたたえる
来日中の台湾の李登輝元総統(86)が6日、
観光などのため高知市を訪れ、
桂浜の坂本竜馬像などを見て回った。
竜馬に造詣が深いことで知られる李元総統は、
太平洋を見下ろす竜馬像と対面し
「天から降りた人間だ」とその功績をたたえた。
県立坂本竜馬記念館では、
竜馬が姉にあてた手紙や、
薩長同盟盟約書などを前に
「今の日本にもこういう人がほしい。
若い人たちに竜馬の実践能力を見習ってほしい」
と熱っぽく話した。
竜馬は「天から降りた人間」、この李元総統の意見に同感である。
どのようなところで、元総統は竜馬に共感しているのであろう。
坂本竜馬が海援隊をつくり、海の上の独立国(藩)を目指したところが、
中国からの台湾の独立に重なって見えたのだろうか。
日本のために身を捨てて尽くした
坂本竜馬がフリーメイソンだったという本が出ている。
私はすべて読んだわけではない。
そうだったとしても、彼の価値が下がるということは
ないのではないか。
彼のことだから、利用できることは利用して
なんとしても日本を守ろうとしたであろう。
日本のために身を捨てて尽くした、
という視点なくしては彼のほんとうの
姿は見えてこないと思う。
感涙にむせんだ
かの勝海舟が、竜馬を弟子にしたのは、
彼を見込んでのことであった。
勝海舟は西郷隆盛の何より至誠をかった男である。
その勝が、たとえどんなに優秀な人間だったとしても
単なる成り上がろうとしているだけの
脱藩浪士の世話をするはずがないではないか。
ましてや、当時の竜馬は土佐から出てきた
田舎侍であり、鼻に抜けるような才子ではなかった
ことは確かなことであろう。
大政奉還も、勝が竜馬にアイデアを提供し、
竜馬が土佐藩を動かして、実現された。
慶応3年10月14日、慶喜が将軍を辞し、
大政奉還が成ったとき、竜馬は、
「よくも断じたまえるものかな。
この公の身辺に万一の事あるときは、
自分は誓って一命を捧げてこれを守らん。
天下のためにその公正な処置に
感謝せずにはいられない。」
といって感涙にむせんだそうだ。
それについて、勝部真長著『勝海舟伝』には
こう書かれている。
「私を捨てて公につく」という出処進退に、
竜馬は純粋に感動できた人である。
そしてこの感じ方、考え方は海舟と同型である。
大政奉還を聞いて、慶喜のために泣いたものは、
薩にも長にもいなかったであろう。
薩・長・土にはまだ「私」があった。
私的野心があった。
(中略)
西南雄藩のそういう「私」的な野心を押さえて、
「公」的な「一大共有」のものにさせようとするのが、
「海舟-竜馬の線」の以心伝心、
あうんの呼吸であったろう。
私は、慶喜の決断に竜馬が感涙にむせんだ話を
あらためて読み、感じたのは、
「私を捨てて公につく」ことのできる人間であるという
こと。
さらに「感謝のできる」人間だったのだなということを
あらためて気づかされた。
竜馬は慶喜にいたく感謝しているのである。
なんとも言いがたい“威厳”
慶喜はもちろん、土佐が大政奉還をすすめる背景には、
脱藩浪士、竜馬がいるなどということは知らなかったであろう。
もちろん、大政奉還は竜馬のためにしたことではなかった。
そもそもが竜馬が大政奉還を画策したのも、
自分の身のためではない。むしろ、その方向に進んだからこそ、
命の危険が増えてしまったのだ。
その大政奉還が慶喜の決断によってなされることとなり、
竜馬は、慶喜がさぞや苦しい心境であったろうと、
涙を流して感謝している・・・。
しかも、今後慶喜になにかあったときは
命を捧げて御守りしようと誓っている。
こんな竜馬であればこそ、李元総統がいうような
まるで「天から降りた人」のような活躍ができたのであろう。
勝が竜馬に初めてあったとき
惹きつけられた
彼のもつなんとも言いがたい“威厳”という
ものと同じものを感じたのが、
若き日の中江兆民であった。
兆民は竜馬のことをこう言っている。
豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ。
予は当時少年なりしも、
彼を見て何となくエラキ人なりと
信ぜるが故に、
平生人に屈せざる予も、
彼が純然たる土佐なまりの方言もて、
「中江のニイさん、煙草を買ふてオーセ」
などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと
しばしばなりき。(幸徳秋水『兆民先生』より)
後年、東洋のルソーと呼ばれ、
民権派を指導する哲人となった彼は、
会いたくない人には
「アンタと会う必要はない」
と面と向かっていうような
傲岸不遜な面を持ち合わせていたという。
三つ子の魂百までという、
竜馬とあった頃の、少年時代の兆民も
そういうところがあったのだろう。
だから「平生人に屈せざる予も」と
書いている。
その兆民が竜馬に頼まれて、
煙草の「使い走り」
―悪い言葉を使えばパシリをしているのである。
竜馬という人間よほど魅力があったのだ。
「中江のニイさん、煙草を買ふてオーセ」
という言葉にそれがあらわれている。
「北風と太陽」の話で言えば、
竜馬は、風を吹かせて強引に旅人の服を
脱がそうとした風のような人ではなく
あたためることによって旅人に自発的に
服を脱がさせた太陽のような人であったのだろう。
彼がもつ“心の美しさ・あたたかさ”
坂本竜馬は、大政奉還が成立してから
ほぼ1ヵ月後の慶応3年11月15日、
京都河原町通りの近江屋2階で殺された。
千葉門下の優秀な剣の使い手であった
彼が簡単に殺されてしまったのは、
その日ひどい風邪を引いていたからとか、
刀をいつもそうであるように傍らに
置いていなかったから、とか言われているが、
勝部真長は『勝海舟伝』で
中江兆民の
彼(※竜馬のこと)の眼は細くして、
その額は梅毒のため、
抜け上り居たりきと。
(幸徳秋水『兆民先生』より)
という言葉を引用して、
「竜馬は長崎にいた頃から梅毒だった。
それが運動神経をにぶらせたのではないか」
と書いている。
おもしろい見方だとおもった。
とにかく梅毒であろうが、
フリーメイソンに入っていたとしようが、
坂本竜馬の評価は下がるものではない。
それは、業績だけではなく、
彼がもつ“心の美しさ・あたたかさ”といった
人間性そのものがその背景にあるからだ。
来年のNHK大河ドラマは坂本竜馬だという。
大河ドラマにはがっかりさせられるものも
多いのであるが、今回は他ならぬ
竜馬である。すくなくとも、第一回目は
のぞいてみたい。
