孤独。
つらいものであるが、
それはそれで楽しめる心をつくるのが修行なのかもしれない。
頭山満はこう言っている。
自分は、自分の絶対の自覚信念を喜び楽しんでいるばかりぢゃ。
褒めようと、謗ろうと人の勝手ぢゃ。
凡人など百人居ろうと何人居ろうと、己一人きりが頼みぢゃ。
その百人のうちに万世生き通し、
不老不死の奴がたまにはある。
古代インド、パーリ語の仏教経典「スッタニパータ」には、
こうある。
eco charo khagga visana kappo
(エコ・チャロ・カガ・ビサナ・カッポ)
独り歩め、犀の角のように。
仏教学者の中村元は「ブッタのことば」でこう訳している。
犀の角のようにただ独り歩め
ブッタ時代の話し言葉に近いパーリ語と現代ベンガリー語は
似ているそうだ。
(以上、「スッタニパータ」の部分は
朝日新聞2003.7.19 be より転載。以下同様)
ベンガル出身の詩人タゴールが作詞した
『エコラ・チャロ(独り歩め)』
という歌が
インドの独立記念日などによく歌われるそうだ。
その歌詞の意味は、
他人がどうであれ、断固として独り歩め
歌の中では「エコラ・チャロ」が5回以上も反復されるそうだ。
インドの詩人タゴールが作詞した
『エコラ・チャロ(独り歩め)』の歌詞の意味、
他人がどうであれ、断固として独り歩め
その心は、頭山満の言葉にそっくりではないか。
冒頭に掲げた言の続きである。
笑ふ奴は笑わせて置けばよい。
佐久間象山は
「嗤ふ者汝の嗤ふに委す。謗る者汝の謗るに委す。天光我を知る。他人の知るを求めず」
というてをる。強いて知己を人間に求めようと思っていない。
天地を相手としてをればそれでよい。
自分一人を多数と思うてをる。
独りで居ても淋しくない人間でなくてはならん。
自分は絶対の魂は人後に落ちんが、
学者でもなければ能者でもない。
『言志録』にもこうある。
士は当に己に在る者を恃むべし。
動天驚地極大の事業も、
亦すべて一己より締造す。
〔訳文〕
およそ、大丈夫たるものは、自分自身にある者を
たのむべきで、
他人の智慧や財力、権力などをたのみにしてはなにが
できようか。
天を動かし、地を驚かすような大事業も、
すべて、己一個より造り出されるものである。
(川上正光全訳注『言志録』より)
士は独立自信を貴ぶ。
熱に依り炎に附くの念起すべからず。
〔訳文〕
丈夫たるものは、他に頼らず、一人立って、
自信をもって行動することを貴ぶ。
権力ある者にこびたり、
富貴の者に付き従うような考えを起こしてはいけない。
(川上正光全訳注『言志録』より)
“一人”=“独り”がいかに尊いことか・・・。
すべては一人から始まるのだ。
一人が淋しくて群れをなして、
そこから外れたくなくて悪い事をする。
なんて、情けないのだろう。
またここで冒頭から紹介している頭山満の言葉、
その最後のしめをあげます。
独りで居ても淋しくない人間になれ。
子供の時からこの考えでいたが、今でもそうぢゃ。
世間には、自分が浪人者だから、
不遇ぢゃの、気の毒ぢゃのといふ者が
あるやうぢゃが、自分は何とも思はん。
不満も不平もない。
日本といふ結構な国に生れたことが何より
有難い。
ただ開闢以来、祖先から受けた大恩を如何にして
報ゆるか、それを只管考へるだけだ。
その為には励積あるのみぢゃ。
先に紹介した詩人タゴールは、頭山満をこう評している。
ボース氏(インドの革命家)に語って曰く
前回日本に来た時と違って、
今度は真の日本人に接したことを喜ぶ。
頭山満氏に対する余の印象は、
印度古代のリシー(聖人の意、漢字で律師と書くことあり)
を目の前に見るやうな感じである。
詩聖ともでいわれ、ノーベル文学賞を得た
思想家であるタゴールは、
「古代インドの聖人のよう」
と頭山満を評したことを、
われわれ後世の日本人は深く心にとめるべきだ。
そして、
頭山の
「独りでいても淋しくない人間になれ」
とタゴールが自分の詩にも取り入れたと思われる
『スッタニパータ』の
「犀の角のようにただ独り歩め」
と不思議な一致をしているのは面白いと思う。
